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昨夜、椿の誕生日前日。
その日は、谷の奥さんのあきらさんの初出勤日だった。
谷に話をした翌日、あきらさんは食堂を見に来て、翌週の月曜日には面接をし、火曜日には雇用契約書にサインをした。
勤怠システムの登録の関係で、一日空いて出勤となったのだ。
初日の働きで、食堂のみんなはあきらさんを大歓迎してくれたと聞いた。
本人の希望で、谷の奥さんだということは食堂以外には伏せることになったのだが、初日早々に食堂に行って、働く妻をゆるみきった表情で見つめる谷を見ていたら、バレるのは時間の問題だと思った。
かく言う俺も、椿を見つめすぎて気持ちがバレバレだと笑われた。
名前で呼び合い、週末には一緒にスーパーに買い物に行き、浮かれていたことは否定できないが。
人事の問題が解決し、再来週には食堂から清掃へ一人異動し、晴れて、椿は清掃業務から完全に離れることとなる。
ひとまず、あきらさんが加わって問題が一つ解決したことで、一杯飲もうと誘ったのは俺だ。
そして、アルコール入りとなしを間違えたのは、椿。
酔った彼女に欲情したのは、俺。
挿入を我慢したのも、俺だ。
抱いときゃ良かったって後悔するかもな……。
実は既に、後悔している。
なぜなら、きつく抱き締めて眠ったはずの椿が、いないから。
寝惚けた頭で状況を整理し、ベッドから飛び降りた。
リビングは無人で、味噌汁の香りがした。
洗面所にも風呂にも、トイレにもいないことを確認して、椿の部屋のドアをノックする。返事はない。
已む得ない状況だと自分に言い聞かせ、ドアを開けた。
そして、ホッとした。
彼女の姿はなかったが、荷物はあったから。
出て行ったわけではない。
それを確認して、スマホを取りに寝室に戻ろうとして、ダイニングテーブルの上のメモに気が付いた。
『祖母のお墓参りに行ってきます。朝食は用意してあります。 椿』
午前六時半から墓参りとは随分早い気がしたが、それはさすがに俺を避けてのことだとわかる。
俺は寝室に戻ってスマホを手にし、乱れたベッドを眺めて、腰かけた。
そっと、彼女が眠っていた場所に触れる。
昨夜、ここで彼女を――。
最後まではしていないにしても、キスをして、服を脱がせ、全身に触れ、口づけた。
十年振りって言ってたな……。
十八歳の時以来というのが本当なら、彼女の身体が慣れていなかったのも当然だ。
あの、狭さも。
高校を卒業してすぐにお祖父さんを亡くしたって言ってたよな。
その後すぐにお祖母さんを亡くしたとも……。
恋愛どころじゃなくなっていたのだろう。
それにしても、十年て――。
昨夜の彼女を思い出すと、そのまま自分で処理する羽目になりそうだ。
俺はふうっと肩を上下させて息を吐くと、寝室を出た。
顔を洗い、椿が作ってくれた朝食を食べ、スーツに着替える。
今夜は帰らないって言ってたな。
重い身体を引きずって、玄関のドアを開けた。
今日は朝から会議、午後から打ち合わせ、その後は提出された書類に目を通して承認印を押し、自分の仕事に取りかかれたのは午後三時過ぎ。
いつもならば椿が来て、資料作成を手伝ってくれる。
だが、今日は椿はいない。
金曜ということもあり、定時が過ぎるとあっと言う間にフロアに俺一人となった。
それほど急いでいる仕事ではないが、椿のいない部屋に帰っても、彼女の帰りが気になりそうで、帰りたくなかった。
晩飯も忘れて仕事に没頭し、午後十時半を過ぎて、ようやく自分が空腹であることに気が付いた。
「お疲れ様です」
突然声をかけられて、ハッとして振り返る。
作業服を着た男性が清掃ワゴンを押して入って来た。年は六十代前半くらいだろうか。
「お疲れ様です」と、俺も挨拶をする。
「お邪魔ですか」
「あ、いえ。帰るところなので、お願いします」
俺はパソコンの電源を切る。
「すみませんね、遅くなってしまって。今日はやなちゃんが休みで、手が足りなくて」
「そうですね。僕も彼女がいないと仕事が溜まってしまって」
「本当に、若いのによく働くいい子だから」
「ええ」
男性はワゴンからモップを取り出し、床掃除を始める。
「今頃、酔っ払って大騒ぎしてるんですかね」
「え?」
「前にやなちゃんから聞いたことがあるんですよ。誕生日と身内の命日が同じだなんて、どうして過ごしているのかって。そしたら、昼間は墓参りで、夜は記憶がなくなるまで飲むんだそうです。その日だけは、何もかもを忘れて、バカになりたいからって」
「バカに……って」
椅子をずらして机の下までモップで磨き、椅子を戻す。
「毎日真面目に、一生懸命働いているあの子には、年に一度くらいバカになる日があってもいいんでしょうね。ただ、そうは言っても若いお嬢さんだ。悪いことに巻き込まれたりしなければいいと、仲間内では心配してるんです」
「そうですか。あ、じゃあ、お先に失礼します」
「ああ、引き留めてすみません。お疲れ様です」
俺はエレベーターを待たずに階段を駆け下りた。
足早にビルを出て、スマホを取り出す。
椿の番号を呼びだし、〈発信〉をタップした。
三十秒ほど呼び出したが、出ない。
幼馴染と一緒だと言っていた。
墓参りに行って、食事に行くと。
その後は……?
昨夜の様子だと、椿は酒に強くない。
バカになるほど、記憶がなくなるほど飲んで、その後は?
顔ナシの男に抱かれる椿を思い浮かべてしまい、ギリッと歯軋りをした。
「くそっ――」
十月も明日で終わる。
冷たい夜風に頬を撫でられても、俺の身体は熱かった。
よくわからない焦りと不安、苛立ちに血液が沸騰しそうだ。
俺は足元の落ち葉を踏みつけながら、いつもの三倍速で歩き出した。
帰っても椿はいない。
出て行ったままの部屋の電気を点け、ネクタイを解く。
いないとわかっていながら、彼女の部屋を覗いた。
やはり、いない。
ドアノブを持ったまま部屋を見まわし、リビングに戻ろうとした時、本棚の上の写真立てがないことに気づいた。
不思議に思い、散歩ほど部屋に入り、写真立てがないのではなく、伏せられていることがわかった。
本棚の上で、三つともうつ伏せになっているなんて、何かの拍子に倒れたのではないだろう。
一つを手に取る。
祖父母と椿の写真。
もう一つを手に取る。
両親と椿の写真。
父方の祖父母なんだな……。
父親と祖父は顔の形というか雰囲気が似ていた。
どうしようか迷って、俺は写真立てを元通り、伏せて置いた。
ふぅっとため息をつき、部屋を出る。
パタンとドアが閉まる音が、やけに大きく響いて聞こえた。
まだたった二週間だが、この家に椿がいて当然のように感じていた。
朝起きれば朝食を作る椿がいて、昼には社食で働く椿、夕方は俺の隣で働く椿、夜には一緒に食事をする椿がいる。
いつの間にか、いつも一緒にいるな……。
ピーンポーン
ぼんやりと廊下にたたずんでいると、インターホンが鳴った。
もうすぐ日付が変わろうという時間に、来客はもちろん配達の予定などない。
俺はモニターの確認もせずに玄関ドアを開けた。
椿だと、思ったから。
「あーっ! ホントにイケメンじゃん」
瞬きを忘れた。
目の前で俺を指さすのは、金髪に近い茶髪の男。と、椿。
二人は真っ赤な顔をして、互いに肩を組み、ふらつきながらも支え合って立っている。
「でしょでしょ!? 拝みたくなるでしょ?」
「はぁ? 拝まねーし!」
「なんでよ!? ありがたいじゃない」
「俺だってイケメンだしぃー」
男がそう言うと、椿がキャハハと笑った。
よくわからないが随分楽しそうだ。
だが、さすがに近所迷惑だ。
「とにかく中に入れ」
「はーい」
男が前進し、椿は前のめりになる。
俺は咄嗟に彼女を抱きとめた。
「部長、格好いい! 俺、惚れちゃう」
ケラケラ笑いながら、男は玄関に座り込んだ。
「だーめーっ!」と言いながら、椿が俺の腕にしがみついた。
「彪しゃんはあーげない!」
完全に酔っている。
アルコールの匂いをプンプンさせた椿は、身体に全く力が入っていなくて、手を離したらその場に倒れ込むこと間違いなかった。
仕方なく、俺は椿を抱き上げた。
俗に言う、お姫様抱っこ。
そして、男に言った。
「椿の靴を脱がせてくれ」
男は笑顔で敬礼して、彼女のパンプスを脱がせた。
「椿を寝かせてくるから、ちょっと待っていてくれないか」
男はもう一度敬礼した。
ふざけた奴だ。