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#海辺の町
夕方の離れは、不自然なくらい静かだった。
啓介は机の上へ札を並べ直し、芽生は本堂側の廊下で記録用紙をそろえている。声をかけようと思えば届く距離なのに、どちらも一歩が出ない。さっき坂道で聞いた言葉が、まだ床板の上に落ちたままみたいだった。
義海が様子を見に来て、空気の冷え方にすぐ気づく。
「何これ。雨降る前みたい」
誰も答えない。
「ほんとに降るぞ」
「お前は帰れ」
啓介が言うと、義海は「はいはい」と肩をすくめて引き下がった。
静けさが戻る。
啓介はようやく芽生のほうを向いた。
「さっきの、どういう意味」
芽生は紙の束を抱えたまま立ち止まる。
「そのままです」
「春が終わったら、帰るってこと」
「まだ、決めてません」
その答えが、かえって胸をざわつかせる。
決まっていないなら、止めていいのか。いや、止めるって何だ。そもそも自分にそんなことを言う資格があるのか。
「じゃあ、行くかもしれないんだ」
「……うん」
啓介は頷くこともできず、その場に立ち尽くした。
芽生は視線を落としたまま続ける。
「ずっとここにいられる前提で動いてたら、最後に言えなくなる気がして」
「何が」
その一言だけ、啓介はやっと口にできた。
芽生は困ったように笑って、けれど答えなかった。
「ごめんなさい。今の言い方、ひどかったです」
「……俺も」
謝っても、間に残ったものまでは片づかない。
芽生は紙を抱え直した。
「今日は先に帰ります」
啓介は止められなかった。
離れの戸が開いて、閉じる。
昼に聞いた音よりずっと静かなのに、今度のほうが深く刺さった。
二人が別々の方向へ歩いていく夕方だった。
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