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#海辺の町
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夜の離れには、紙をめくる音と、鉛筆の先が机を叩く音が絶えなかった。啓介は文案を書いては消し、書いては首をかしげる。向かいでは芽生が聞き取り先の名前を整理し、海花は無言で札の余白に小さな波を描いていた。
享佑は途中からずっと立ったままだ。腕を組み、机の上の紙を順に見ていく。
「これ、説明しすぎ」
「こっちは弱い」
「その言い回し、どこかで見た感じがする」
容赦がない。
義海がたまらず椅子に沈む。
「なあ享佑、もう少し人の心をプリンみたいになめらかにできないのか」
「味がぼやけるだろ」
「たとえでも厳しいな」
小さな笑いが起きたが、啓介は笑えなかった。自分の書いた札案が、次々と机の端へ避けられていくからだ。
「じゃあ、これはどうなんだよ」
啓介は少し強い口調で、一枚を差し出す。
「『こ この部屋で、泣いたことは秘密にしていい』」
享佑は一度読んで、首を傾げる。
「悪くない。でも、誰の声か分からない」
「全部に本人の顔が見えなきゃだめなのか」
「見えなくてもいい。けど、嘘は混ざるな」
啓介は椅子を引いた。木の脚が床を擦る。
「嘘なんか書いてない」
「だったら、まだ足りないだけだ」
言い返そうとしたところで、芽生が二人の間に紙を差し込んだ。
「啓介さん、これ」
「何」
「さっき鼓夏さんから聞いた話。離れで湯のみを一杯もらっただけで、帰れた日があったって」
芽生はメモを指で示す。
「これなら、もっとその人の温度が出ると思います」
啓介は紙を見た。短い聞き書きだった。けれど、湯のみの縁の熱さまで伝わるような言葉が入っている。
享佑が低く言う。
「そういうのだよ」
腹が立つのに、否定できない。
啓介は鼻から息を吐き、座り直した。
「……分かった。書き直す」
「今夜中」
「分かってる」
享佑はようやく包みを机の中央へ置いた。
「差し入れ。甘さは手を動かしてる人から先な」
包みの中には、小さなプリンが人数分きっちり入っていた。
義海が「うわ、急に優しい」と身を乗り出す。享佑は「急じゃない」とそっぽを向いた。
啓介は書き直しの紙を前に、もう一度鉛筆を持つ。
さっきまで腹立たしかった締切の線が、少しだけ、進むための道筋に見えた。