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#海辺の町
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翌日、昼の光が離れの畳に白く落ちるころ、鼓夏がやって来た。近所の子どもたちへ音読を教えている彼女は、いつも声を張り上げる代わりに、相手の息が落ち着く速さで話す。
「昔、この離れで本を読んだことがあるの」
そう言って、湯のみを手の中で回した。
啓介たちは自然と手を止める。鼓夏の話し方には、人を黙らせる力がある。
「学校に行きたくないって泣いてた子がいてね。何を言っても顔を上げなかったの。でも、ここでお湯を飲んで、わたしがただ声に出して読んでたら、いつのまにかその子、寝ちゃったの」
「本の内容じゃなくて?」
義海が聞く。
「たぶん、声と、湯気と、この部屋だったの」
芽生がすぐに書き留める。海花は窓辺の湯のみを見つめ、鉛筆を走らせた。丸い口、立つ湯気、細い指。
啓介は何も言わず、紙へ向かった。
書いて、消して、また書く。
最後に残ったのは、短い一文だった。
こ 孤独の温度は、湯のみ一杯で変わる
書き終えた瞬間、離れの空気が少し変わった気がした。説明より先に、部屋の中の温度が立ち上がる。
芽生が読み上げる。
「いい」
短く、はっきりと。
享佑も紙を覗き込み、文句を言わなかった。その代わりに、「句読点は後で整える」とだけ言った。それがこの男なりの合格らしい。
義海が急に鼻をすすった。
「ちょっと待って。一枚目で来るなあ」
「泣くの早い」
莉々夏が笑う。
「だって、湯のみ一杯って言われたら、もう見えるだろ。湯気とか」
「見えるけど」
絋規が横から覗き込み、「写真にしたいな」とつぶやく。
鼓夏は、その騒がしさを見て、ようやく小さく笑った。
「この部屋、昔もこんなだった気がする」
その言葉に、啓介は顔を上げた。
人が集まって、少し笑って、少し泣きかけて、また戻る。
離れの役目は、きっと立派な名前じゃなくていいのだと思った。
机の真ん中に置かれた最初の一枚を見ながら、芽生が静かに言う。
「始まりましたね」
啓介はうなずく。
札の「こ」は、もう海に沈んだ始まりではなかった。
確かに、ここで一枚目として息をし始めていた。