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「はい、今後はこの番号におかけいただければと思います。よろしくお願いいたします」
次の日から、真里亜は人事部のデスクでキュリアスとの仕事を再開した。
住谷から、文哉がそれを許可して人事部の部長にも伝えた、と言われ、真里亜は抜いてあったファイルを全て共有フォルダに戻した。
キュリアスの担当者には、
「今まで外線で副社長室に電話をもらっていたが、今後はスマートフォンにかけて欲しい」
と頼む。
文哉とのやり取りも主にチャットで済ませ、直接顔を合わせることはなかった。
キュリアス ジャパンの新社屋の竣工も近づき、AMAGIの業務もいよいよ大詰め。
真里亜達は時間に追われ、気の抜けない日々が続いていた。
「お疲れ、阿部 真里亜。はい、これ」
人事部のデスクで残業している真里亜に、藤田が栄養ドリンクを手渡す。
「ありがとう!」
「あんまり根詰めるなよ。手伝ってやりたくても何も出来なくて悪いな」
「ううん、気持ちだけで嬉しい。ありがとね」
微笑む真里亜に、じゃあな、と手を挙げて藤田は部屋を出て行った。
ふうとひと息つき、もらった栄養ドリンクを飲みながら今後の予定を確認し【最終説明会】と書かれた項目に目をやる。
その日に、キュリアス ジャパンの新社屋で、先方の社長以下役員達に実際にセキュリティシステムを説明し、動作確認をしてもらうことになっていた。
そこでOKをもらえれば、無事にAMAGIの任務は完了する。
だが、少しでも何か疑問や不具合を指摘されれば…
(いやいや、そんな恐ろしいことには絶対にさせない!)
真里亜は拳を握りしめると、ありとあらゆる想定をして、先方の質問に答えられるように資料を作り込んでいった。
ついに最終説明会の日を迎えた。
真里亜は朝から何度も、持参する資料やパソコン、タブレットを確認し、準備が整うとエントランスに下りる。
住谷が運転する車に文哉が、そしてもう一台の車にエンジニアやプログラマーと一緒に真里亜も乗り込んだ。
「あれ?なんで真里亜ちゃんがこっちの車に乗るの?」
「え、いや、その。最後にもう一度皆さんと確認しておきたくて」
「そうなの?真里亜ちゃんなら、もう完璧に準備出来てるって」
「いやー、そんなことないですよ。詳しいシステムの内容を聞かれたら、私なんて何も答えられないし」
「それは俺達がフォローするよ」
「そうだよ。心配するなって」
「はい!ありがとうございます」
皆で緊張をほぐしつつ、気合いを入れながら現地に赴いた。
「それではこれより、AMAGIコーポレーションの方によるビルのセキュリティシステムについての説明会を行います」
キュリアスの担当者に紹介され、文哉が中央に歩み出る。
会議室にはキュリアス ジャパンの社長、副社長、役員、そして警備担当やシステムエンジニア達がズラリと顔を揃えていた。
深々とお辞儀をしてから、文哉はマイクを手に挨拶する。
「AMAGIコーポレーションの天城 文哉と申します。この度は弊社に、このような素晴らしい御社のビルのセキュリティをご用命頂き、心より感謝申し上げます」
ハキハキと、そして堂々と話す文哉を、真里亜は壁際からじっと見つめる。
久しぶりに見る文哉はいつにも増して精悍で、この人がいてくれるなら大丈夫と、真里亜は不思議な安心感に包まれていた。
挨拶を手短に済ませると、早速大型スクリーンを使いながら、ビルのセキュリティシステムについての説明を始める。
3Dや動画を駆使して作られた資料を映し出しながら、それぞれの担当者が詳しく説明していく。
真里亜がキュリアスの面々の反応をそっとうかがっていると、エンジニア達や役員達も時折大きく頷きながら、熱心に耳を傾けていた。
(うん、納得していただけてるみたい)
以上です、と全ての説明を終えると拍手が起こり、真里亜達はホッとして頭を下げた。
その時だった。
「うーん、イマイチよく分からんのだが」
低く響く声が聞こえてきて、会議室の空気が一瞬で凍りつく。
驚いて顔を上げると、皆がその声の主を見ていた。
(あの方は、キュリアス ジャパンの社長…)
真里亜の顔から血の気が引いていく。
「なんだか難しい話ばかりじゃないか。システムの仕組みなんぞ、詳しく言われても分からん。それに、フェーズごとに分かれている、とか言われてもなあ。ワシは一体、どこをどう通ったらいいのやら。毎日ちゃんと社長室までたどり着けるのか?」
「あ、はい。もちろんでございます。社長室までのセキュリティシステムは…」
エンジニアのリーダーが、もう一度スクリーンに資料を映しながら手順を説明しようとすると、社長は片手を挙げて遮った。
「その資料はさっき見た。それでも分からん」
「失礼いたしました。それでは、これから実際にビルの中をご案内しながら操作を…」
だが社長は、憮然とした表情で何も返事をしない。
部屋中の皆が、ゴクリと唾を飲み込んで身を固くする。
誰も動けず、何も言えない。
なんとかしなければと文哉が歩み出ようとした時、真里亜がスッとエンジニアリーダーの隣に立った。
真里亜ちゃん…?と、リーダーが小さく呟く声を聞きながら、真里亜はゆっくりとお辞儀をしてから口を開いた。
「大変失礼いたしました。それでは改めて、セキュリティシステムの手順を1から詳しくご説明いたします」
そう言ってパソコンを操作し、スクリーンに資料を映し出す。
「こちらをご覧いただけますか?」
それは、イラストや大きな文字、簡単な単語を並べた、まるで家電の取り扱い説明書のような分かりやすい資料だった。
社長がデスクに両手を載せて身を乗り出し、スクリーンをじっと見る。
「まず、ビルのエントランスにあるセキュリティゲートは、この部分にIDカードをかざしていただければ大丈夫です。入館の記録もすぐに警備室に表示されます。次に高層階エレベーターを呼び出すパネルがこちらです。カードはこの部分にタッチしてください。ピッという音がしたら、上か下かの行き先ボタンを押します。そしてエレベーター内は、ここにパネルがあります。カードを同じようにタッチして、ピッと鳴ってから階数ボタンを押してください」
「なるほど。もし部外者が別のカードをかざしたらどうなる?」
社長の質問に、真里亜はにこやかに答える。
「その場合、ブーという音がしてセキュリティは解除されません。同時に警備室にも通知がいきますので、監視カメラで確認しつつすぐに現地に駆けつけることが出来ます」
「分かった。それで?ワシはそのカードさえあれば社長室に入れるのか?」
「もう一つ、最後に更にセキュリティが厳重な顔認証と指紋認証をしていただきます。社長室のドアの横に取り付けたこちらの機械の、この丸い球体をじっと見ていただきながら、下のこの黒い部分に人差し指を載せてください。社長のお顔と指紋は既に登録済みですので、ピーという音と共にロックが解除されて、お部屋のドアを開くことが出来ます」
真里亜はスクリーンに映ったイラストを差し示しながら、ゆっくりと説明した。
「ほう、おもしろいな。なんか映画の世界じゃないか」
「ええ。有名な企業でも、この顔認証と指紋認証まで導入されている会社はそう多くありません。キュリアス ジャパン様は、まさに世界と時代の最先端を行かれる会社ですから、このセキュリティが相応しいかと」
「そうだな。ワシも毎日涼しい顔して、この顔面認証とやらをピーッと解除しようじゃないか」
顔面認証…?と思いつつ、真里亜は
「そうですね。とてもスマートで格好良いお姿が目に浮かびます」
と笑顔で頷く。
「ははは!毎朝の楽しみだな」
「ええ。では早速ですが、実際にエントランスから社長室までをご一緒に回っていただけたらと存じます。ご足労いただけますでしょうか?」
「ああ、行こう」
社長が立ち上がると、他の皆も一斉に立ち上がった。
「まずは、このエントランスのセキュリティゲートから参ります」
1階に下りると真里亜は、先程プロジェクターで映していた資料を印刷したものを、社長に見せながら説明する。
「この部分にカードタッチをお願いいたします」
「こうだな」
社長はピッという音と共に開いたゲートを、満足そうに通過する。
「はい、バッチリです。ではエレベーターに参ります」
「えーっと、この部分にタッチだな?」
社長は、真里亜が持っている資料のイラストを覗き込みながら、パネルにタッチする。
「左様でございます。その後、上か下かのボタンを押していただけますでしょうか?」
「えーっと、社長室は地下3階だから…」
そう言いながら下のボタンを押そうとする社長に、真里亜は思わず、ええー?!と驚きの声を上げる。
「ははは!冗談だよ。親父ギャグ」
「そ、そうでしたか。びっくりしてしまいました」
「いや、でも実際に地下に社長室があってもいいだろうな。不審者の意表を突けるだろう?」
「確かに、おっしゃる通りですね」
「ああ。これも立派なセキュリティシステムだ。親父のアナログセキュリティだな」
「ふふふ、お上手ですね」
無事にエレベーターに乗り込み、最上階の社長室に着く。
「ほー、これが顔面認証か」
「さ、左様でございます」
えーい、もう何とでも呼んでくれ!と真里亜は投げやりに頷く。
「ここを見ながら指を置くんだな。おーい、ワシじゃ」
社長は指をかざしながら球体に話しかける。
「あはは!社長でいらっしゃいますよー」
真里亜もだんだんテンションがおかしくなってきた。
ピーッという音がして、カチャリとロックが解除される。
ドアレバーに手をかけて真里亜がドアを開けると、社長は部屋に足を踏み入れ、ゴール!と両手を挙げて喜ぶ。
後ろに控えていた社員達が、一斉にパチパチと拍手した。
(なんじゃこりゃ)
そう思いつつ、真里亜もにこやかに笑ってみせる。
「社長、無事にお城に到着ですね。おめでとうございます!」
「ああ。なかなか楽しかったわい。早くここに通いたくなった。それ、もらえるか?」
「もちろんです」
真里亜は、持っていた資料を社長に手渡す。
「これは、君が作ったのかね?」
「はい。左様でございます」
「これが一番分かりやすかった。ありがとう。君、名前は?」
「申し遅れました。わたくし、AMAGIコーポレーションの阿部と申します」
名刺を差し出しながら、しまった!人事部って書いてある!と青ざめたが、社長は気づかなかったようだ。
それよりも、名前に釘付けになっている。
「君、阿部 真里亜っていうのかね?」
「あ、はい。顔に似合わず申し訳ありません」
「何を言う。良い名前じゃないか。久しぶりにアベ・マリアを聴きたくなったな。今夜ワインを飲みながら聴くとしよう。グノーか、いや、カッチーニかな」
社長は満足そうに笑顔で頷いていた。
「みんな、今日まで本当によくやってくれた。ありがとう、お疲れ様!」
「お疲れ様でした!」
「かんぱーい!」
文哉の音頭に、皆で一斉にグラスを掲げる。
無事にキュリアスの仕事が全て終わり、チームのメンバーは会議室でささやかな打ち上げをしていた。
「いやー、今回は何と言っても真里亜ちゃんのおかげだよ」
「いえいえ、そんな。皆さんのシステムの説明、素晴らしかったです。先方のエンジニアの方達も感心されてましたし」
「けど俺達は、肝心の社長は納得させられなかったんだ。真里亜ちゃん、いつの間にあんな資料作ってたの?使う予定じゃなかったでしょ?」
「はい。いつも準備する資料は『10のうち1だけでも役に立てば儲けもの』って気持ちで作ってますから」
「へえ、すごいなー」
「これぞ、秘書課魂!って私、人事部ですけど」
あはは!と皆が笑い声を上げる。
「とにかく!今日の立役者、真里亜ちゃんにかんぱーい!」
笑顔で皆と乾杯している真里亜を、文哉は少し離れた所から見守っていた。
「いいのか?彼女を逃しても」
いつの間にか隣に来ていた住谷が声をかける。
「お前、彼女以上の子なんて見つけられるのか?真里亜ちゃんがそばにいるのといないのとでは、雲泥の差だな。仕事も、この先のお前の人生も」
ポンと文哉の肩に手を置いてから、住谷は皆の輪に加わる。
一層盛り上がるメンバーと、その中心で明るい笑顔をみせる真里亜を見て、文哉は複雑な想いを抱えていた。
(いつも冷たくあしらって、あんな怪我まで負わせてしまった。チームから外れろと言っておきながら、結局こんなにも助けてもらって…。今更、なんて声をかければいいのか)
それにキュリアスの仕事は終わった。
明日から真里亜は人事部の仕事に戻る。
(もう彼女との接点はなくなったんだ)
急に真里亜を遠くに感じ、文哉は結局ひと言も声をかけることが出来なかった。
「阿部 真里亜ー、これ頼んでもいいか?」
「はーい」
次の日から真里亜は、人事部の仕事に本格的に復帰した。
キュリアスの時のように1から資料を作る、なんてこともなく、淡々と決められた手順で事務処理をしていく。
藤田や先輩達と雑談を交わしながら、のんびりと仕事をしていると、キュリアスの仕事に追われていた怒涛の日々は、もはや遠い昔のことのような気がしていた。
「お昼行こうよー」
「あ、たまには外に食べに行かない?」
先輩達の提案に、真里亜も頷く。
「いいですね。外でランチなんて久しぶり!」
カーディガンを羽織り、小さなバッグを持って近くのおしゃれなイタリアンレストランに行く。
「はー、これぞOLって感じ」
美味しいカルボナーラを食べながら、真里亜はうっとりと呟く。
「あはは!そっか。真里亜、最近まで下僕だったんだもんね」
「大変だったねー。これからは人事部で平和に過ごしなよ」
先輩達に、はいと返事をしながら、真里亜はふと違和感を覚えた。
(そんなに嫌な毎日だった?ううん、違う。確かに忙しかったし、副社長とやり合ったりしたけど、私はきっと…)
幸せだったんじゃないかな?
頭に浮かんだセリフを、真里亜はじっと考える。
副社長室で文哉と二人、キュリアスの為に何度も話し合い、確認し、資料を練り直していた日々。
一生懸命作った資料をドキドキしながら文哉に見せ、完璧だ、と言ってもらえた時の喜び。
コンペを勝ち取り、皆で喜び合って打ち上げをした時の達成感。
チームメンバーで力を合わせて最後までキュリアスの仕事をやり遂げ、互いを労った時の仲間との絆。
(あの経験は私にとってかけがえのない財産。副社長室で過ごした日々は、間違いなく私の幸せな時間だったんだ)
そう自覚した途端、真里亜の心の中で、幸せが遠ざかる寂しさが広がっていった。