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何も言わなかったのに、何も伝えていないはずなのに、
それでも彼は、まるで、
何かを知っているように手を伸ばしてきた。
指先が、触れた。
それだけのことだった。
けれど、その一瞬に、
心臓の奥に沈めてきた音が、ずるりと形を持って動いた。
「やめて」なんて言葉は、もう持っていなかった。
「助けて」も、とうに濁って腐って、喉の奥でつかえていた。
ただ、逃げるでもなく、触れるでもなく、
どこにも気配を残さないように、そこに立っていた。
日下部の目がまっすぐにこちらを見ていた。
まっすぐに。
あまりにもまっすぐで、それが怖かった。
何も知らないくせに。
何もわかってないくせに。
そんなふうに思えたら、楽だった。
けど、
そうじゃなかった。
彼の目は、「知ろうとしている目」だった。
あの目を向けられると、
自分が「汚れている」ことがバレる気がした。
家で言われてきた言葉。
代わりに抱えた傷の場所。
口をふさがれた夜。
蹴られて笑われた朝。
全部、その目の奥に映っているような錯覚。
なのに彼は、眉ひとつ動かさず、
ただ、こちらの心を掬おうとしている。
……そんなこと、
してほしくなかった。
「触れるな」とも言えず、
「触れてくれ」とも言えず、
ただ、じっと、立っていた。
あれはたしか、雨上がりの廊下だった。
濡れた靴が軋んで、静かな校舎に音が響いて。
その音が、自分の中の空洞を叩いていた。
彼の手は、あたたかかった。
その温度に、泣きたくなる。
泣いてはいけない。
泣くと、全部が壊れる。
自分という存在は、「泣かない」ことで保ってきた。
「壊れない」ことで生きてきた。
壊されるのは、いつも身体の方だったから。
けれど、
その手は、
その目は、
壊す気配がなかった。
だからこそ、
怖かった。
やさしさは、毒だ。
まっすぐは、呪いだ。
信じてくれる人間ほど、痛みの火種になる。
わかっている。
だから、近づけてはいけない。
それが、自分を守るただひとつの術だった。
でも、あの日、
あの一瞬だけは──
逃げなかった。
ほんの一秒、
彼のまなざしに身を投げた。
それが、自分のなかの何かを崩したことに、
あとになって気づいた。
それからずっと、
眠れない夜が続いている。
彼の手の温度を、まだ覚えているから。