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「幸ちゃん、久しぶり!」
「本当に久しぶりね、元気だった?」
「ええ。幸ちゃんは?」
「ふふっ、元気よ! あ、千代さん、ご無沙汰しています」
「こんにちは」
「どうぞ、中でお茶でもどうぞ」
「ありがとうございます」
三人が八木家の屋敷へ入ると、幸子の母が出迎えた。
紫野はさっそく、幸子の母に米の買い付け量を伝えた。
数字を紙に記した幸子の母は、筆記具をしまいながら紫野に尋ねた。
「紫野ちゃん、その後どう? 伯父様たちとはうまくやっているの?」
「え、ええ……なんとか……」
そこで、お茶を飲んでいた千代が口を開いた。
「聞いてくださいよ、奥様! 紫野お嬢様は、それはもう毎日お手伝いのような扱いを受けていて、私は見ていられません!」
「これ、千代っ!」
紫野は慌てて千代をたしなめた。
「まぁ、やっぱりそうなのね。噂では耳にしていたけど……紫野ちゃん、本当に大丈夫なの?」
「そうよ、紫野ちゃん、何か困ったことがあったらうちのお母さんに相談してみて」
「ありがとうございます。でも、こればかりはどうしようもないですから……」
紫野は諦めたように言った。
そんな彼女に、幸子の母はため息をつきながら話し始めた。
「紫野ちゃんの伯父さんは、工場経営の仕事は地味で嫌だと言って、若い頃に東京へ出たでしょう? 父親に資金を出してもらって始めた商売も、ことごとく失敗続きだったみたいだし……それがまあ、紫野ちゃんのご両親が亡くなった途端、急に戻ってきて『自分が後を継ぐ』なんて言い出したものだから、この町の名士たちはみんな呆れてるわ」
その言葉を聞いた紫野は、淋しそうに答えた。
「でも、当時の私では後を継ぐこともできませんでしたし……仕方なかったんです」
「それはそうだけど、会社が大きくなったのはあなたのお父様のお陰なのよ。もう少し時間があれば、あなたがお婿さんを取って継げたでしょうに……運命ってどうしてこんなに意地悪なのかしらねぇ」
「お母様、もうやめて! 紫野ちゃんは現状を受け入れて一生懸命頑張っているんだから! 暗い話はもうやめましょうよ」
「そうね、ごめんなさい……つい心配だったものだから……」
「いえ……いつも気にかけてくれてありがとうございます」
そこで、幸子が話題を変えるように言った。
「紫野ちゃん! 実は 私、お嫁に行くことが決まったの!」
突然の告白に、紫野は驚きの声を上げた。
「えっ? 本当に?」
「うん。実は、隣町の三沢家とご縁があってね」
「三沢家といったら、あの大地主の?」
「そう。そちらのご長男との結婚が決まったの」
「わぁ、それはおめでとうございます!」
紫野に続いて、お茶菓子をいただいていた千代も、笑顔でお祝いを述べた。
「それはおめでとうございます。三沢家のことは少し存じ上げておりますよ。あちらのご長男は、とても穏やかで優しい方だと評判ですから」
千代は微笑みながら幸子に言った。
「ありがとうございます。私もまだ一度しかお会いしていないのですが、千代さんのおっしゃる通り、とてもお優しい方でしたわ」
「本当に素敵なご縁で良かったですね」
「ありがとうございます。この子は我が家の末っ子ですから、これでようやく全員片付きましたわ」
「まあ、奥様ったら! そんなことを仰って、本当はお寂しくなられるのでは?」
「いえいえ、むしろせいせいすると思いますわ、おほほ」
「でも、隣町なら近いですし、すぐに里帰りもできるから安心でございますね」
「そうなんです。本当に良いご縁をいただいて感謝していますわ……」
話に夢中な二人を置いて、紫野と幸子はそっと部屋を後にした。
屋敷を出ると、二人は幼い頃よく遊んだ棚田へ向かった。
あぜ道を歩きながら、紫野が口を開く。
「それにしても、幸ちゃんがお嫁さんかぁ……なんか感動して涙が出そう」
「ふふっ、なんで紫野ちゃんが泣くの? 良縁なんだから、喜んでよ!」
「だって、結婚なんてまだまだ先のことだと思っていたのに、いきなりなんだもん」
「私だってそう思っていたわ。でもね、お会いしたらとても素敵な方だったの。それで、結婚するのも悪くないかなって思ったのよ」
「そうなのね……」
そこで、紫野は立ち止まり、幸子の方を向いて彼女の手をギュッと握った。
「幸ちゃん! 絶対に幸せになってね!」
「うん、紫野ちゃん、ありがとう」
「幸ちゃんなら、絶対に素敵な奥さんになれると思うわ」
「ふふっ、紫野ちゃんにそう言われると、すごく心強いわ」
二人は笑顔で見つめ合い、同時にふふっと笑った。
そして再び、棚田の間のあぜ道をゆっくりと歩き始めた。
「紫野ちゃんの結婚は、いつ頃になるのかな?」
「私? 私はそういうの、ないと思うわ。それに最近、家を出ようかなって考えていて」
「え? 家を出るの? どうして?」
「うん、だって、あそこはもう伯父夫婦の家だもの。女学校を出た時に自立すればよかったんだけど、お世話になったご恩を返してからって思ったから」
「えーっ? じゃあ、紫野ちゃんは職業婦人になるの? それで自由恋愛とかもしちゃうの? キャーッ、素敵!」
「そんな風に上手くいけばいいけど、職を探すにしても雇ってもらえるかどうか……」
「紫野ちゃんはお裁縫が得意だから、お洋服作りとか向いてるんじゃない?」
「洋服? 洋服なんて子供の頃に着たきりで、最近はまったく着ていないから無理よ……」
「ううん、そんなことないわ! 紫野ちゃんの着物に合わせる帯揚げや帯締めの色使い、いつも素敵だもの」
「ありがとう。でも、洋装だと、まったくちんぷんかんぷんだから」
「だから、お店で働きながら学ぶって方法もあるんじゃない?」
幸子の言葉に、紫野はきょとんとした顔をした。
「幸ちゃんすごい! たしかに、そういう方法もあるわね」
「そうよ! これからの時代、女性はもっと自由に羽ばたけるのよ。私は普通の主婦になるけれど、紫野ちゃんには頑張って羽ばたいてほしいな! そして、いろいろなお話を私に聞かせて!」
「ふふっ、上手くいったらね」
紫野はそう答えながら、まだ見ぬ未来に思いを馳せる。
その時、幸子がふと問いかけた。
「あの初恋のお兄さんとは、その後どう?」
「どうって……何もないわ。まあ、会えたとしても彼はもう30を超えているでしょうし、結婚して子供が何人もいてもおかしくないもの」
「そうかなー? でもね、村上家には息子さんが何人もいらっしゃるのよ。紫野ちゃんがお会いしたのは、その中のどなたなんだろう?」
「下のお名前も知らないから、分からないわ。それに、向こうは私のことなんて覚えていないと思うし……」
紫野が言い終えた瞬間、空が急に茜色に染まり始めた。
「あ、紫野ちゃん、夕焼け!」
「うん……綺麗ね……」
二人の姿はあっという間に茜色に包まれた。
その色は、棚田の水面に映り込み、息をのむような絶景を浮かび上がらせる。
(あの日と同じ、茜色の空……)
茜色に染まる空をじっと見つめながら、紫野は記憶の糸をそっと手繰り寄せる。
そこに思い浮かぶのは、あの時の優しく微笑む男性の姿だった。
彼を思い浮かべる度、紫野の胸には切ない思いが広がっていく。
その思いは、やがて茜色の空に溶け込んでいき、いつしか泡のようにはかなく消えていった。
コメント
32件
もうさ,あの家から出て紫野ちゃん自立して行けば良いよ。
茜色の空、棚田、お嫁に行く友人…赤とんぼの童謡の世界が浮かびます=ï==ï==ï=♩♬ Men's八木さんは既婚者なのか〜。 当てウマならぬ当てヤギに期待してたのになぁ〜ꉂ(ˊᗜˋ*)𐤔𐤔𐤔 紫野ちゃんが国雄さんと再会するまであと何話? またまたマリコ先生の焦らしプレイに悶える日々が続く〜(〃艸〃)ウフフ♡
自分の置かれた境遇を悲観することなく幸子の幸せを喜べる紫野ちゃんの心の清らかさが素敵✨マリコ先生幸せにしてくださいね🥰