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八月の終わりが近づいた夜、花屋「花は散らない」の裏口には折りたたみ椅子が並べられていた。昼の熱を吸った石畳はまだ少しあたたかく、通りの表より裏のほうが風がよく通る。打ち合わせの名目だったが、実際には夜食会に近い。
アンネロスの焼き菓子、エフチキアが握ってきた小さなおにぎり、エルドウィンが運んできた冷えた麦茶。仕事終わりの顔が、順番に裏口へ集まってくる。
オブラスが紙を広げる。
「次回の役割分担を決めます。花屋の受付、語り台、甘い名札、焼き菓子、会場整理、搬入、記録」
「記録は私がやります」
ジョンナがすぐ手を挙げた。
「甘い名札は私とアンネロスさん」
ハルミネが続ける。
「荷物は任せて」
エルドウィンも短く言う。
役割が埋まっていくたび、ハヤは少し不思議な気持ちになった。ついこの前まで、花屋の裏口は配達用の箱と余った鉢が置かれるだけの場所だった。それが今は、町の先の話を決める場所になっている。
会議が一段落したころ、エフチキアがおにぎりを配りながら言った。
「ねえ、ハヤさんって、花の説明を書いてるときだけ、急に文章が増えるよね」
ハヤがむせる。
「急にって何ですか」
「だって、普段は必要なことしか言わないのに、札には“朝に切ると香りがやわらかい”とか“暑い日は水を浅くして”とか、いっぱい書いてある」
「必要なことです」
「好きなんでしょ」
アンネロスが笑う。
逃げ道を失って、ハヤは麦茶のコップを見つめた。
少し黙ってから、観念したように言う。
「……昔から植物図鑑を読むのは好きでした」
ドゥシャンが目を丸くする。
「図鑑? 小説じゃなく?」
「小説も読みます。でも、図鑑のほうが落ち着きます。葉脈とか、咲く時期とか、土の違いとか、そういうのを見てると」
「宝物じゃない」
エフチキアが身を乗り出す。
ハヤは少し恥ずかしくなって視線を落とした。
「別に、誰かに言うようなことでもないので」
するとノイシュタットが、珍しく真面目な顔で口を挟んだ。
「知識を隠して生きるのは、宝石を味噌汁に沈めるようなものだ」
数秒の沈黙のあと、アンネロスが吹き出した。
「何その例え」
「伝わるだろう?」
「変な方向にだけね」
ハヤも、こらえきれず笑った。
ノイシュタットはその表情を見て、わずかに安堵したように肩の力を抜く。
「つまりだ。君の知識は飾りじゃない。客に渡せる。店の価値になる」
オブラスも頷いた。
「説明札の滞在時間は長いです。実際、読んでから買う人が増えています」
「また数字」
「役に立つので」
裏口の灯りの下、花屋の古い壁にみんなの影が並んでいた。肩書の立派な人は一人もいない。けれど、誰が何を持っているかは少しずつ見えてきている。
会議の最後、ハヤは役割表に自分の欄を見つけた。
〈花の説明/受付補助〉
その文字を見たとき、胸が落ち着かなくなった。受付は表だ。人に見られる場所だ。
ノイシュタットがその表情に気づいたのか、わざと軽い声で言う。
「安心して。いきなり舞台の中央には立たせない」
「立ちたくありません」
「でも裏口だけで終わらせるには、君は詳しすぎる」
山の夜風が、裏口に置かれた花桶の水面を揺らした。
ハヤは何も返さなかった。ただ、役割表の自分の名前のない空白欄を見つめながら、そこがいつまで空いたままでいられるのか、考えてしまった。