テラーノベル
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芽生は本堂の裏手まで歩いてから、ようやく電話に出た。
「はい、芽生です」
風が強く、木々の葉が擦れる音が受話口の向こうへ流れていく。相手は、春明けから研修に入る予定だった設計事務所の担当者だった。期限を延ばしてもらっていた返事を、そろそろ決めてほしいという連絡だった。
『お待たせしてしまってすみません』
「いえ。こちらこそ……」
芽生は石垣に手をついた。
離れの窓が少しだけ見える。中では、誰かが笑い、誰かが椅子を引く音がしている。
『前向きにご検討いただけている、という理解でよろしいでしょうか』
その言葉に、芽生はすぐ返せなかった。
前向き。
都会の事務所で学べることは多い。図面、保存修復、現場の判断、全部ほしかったものだ。そこへ進めば、自分がなりたい形に近づける。それは間違いない。
でも、離れの板壁にもたれながら誰かの話を聞いていた日々が、もう自分の一部になってしまっていることも、同じくらい本当だった。
「……まだ、決めてません」
ようやく出た声は、自分でも驚くほど小さかった。
『承知しました。では、明日中までに最終のご意思を』
「はい」
通話が切れる。
芽生は携帯を握ったまま、目を閉じた。
本堂の陰から、かすかな足音がした。啓介だと分かったが、芽生は振り返らなかった。啓介も、呼ばなかった。
聞かないふりをする優しさがあることを、芽生は知っている。
でも、その優しさが今日は少し苦しかった。
しばらくして、啓介が離れていく気配がする。
芽生はようやく息を吐いた。
受けるか、断るか。
返事を迫られているのは事務所なのに、本当は別のものに答えなければならない気がしていた。
#海辺の町
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