俊の落ち着いた様子を見て、雪子は思った。
この人はこういった事態には慣れている。
普通の男性だったら、若くてあんなに綺麗な女性に告白されたら舞い上がって大喜びをするはずだ。
還暦を間近に控えた年代ならなおさらだ。
それなのに、俊はあっさりと断った。女性に少しの隙も見せる事なくバッサリと切り捨てた。
そこには大人の男の余裕のようなものが見えた。
雪子がそんな事を考えていると、俊はポケットから財布を取り出し中をごそごそと探り始めた。
「ああ良かった、一枚あった。今日名刺入れを持ってきていないので、ちゃんと自己紹介をしていませんでしたね、一ノ瀬俊と
申します」
俊は雪子に名刺を渡した。
雪子は丁寧に受け取るとそこに書かれてある名前を見た。
一ノ瀬の下の名前は『俊』だった。
雪子はその文字を見て一瞬ドキッとした。
なぜなら別れた元夫の名前が『俊之』だったので、その文字につい違和感を持ってしまう。
しかし文字に罪はない。
気を取り直してからもう一度名刺に書かれた文字を目で追う。
肩書には会社名と取締役の肩書、その他に飲食店プロデューサーという肩書も記されていた。
俊の雰囲気を見て会社経営者だろうとは予測をしていたが、『飲食店プロデューサー』という肩書は初めて見る。
雪子がデパートの外商を担当していた時の上客には、こういったフリーランスの人も数多くいたがこの職種は初めて見る。
気になった雪子は俊に聞いてみた。
「飲食店プロデューサーというのは、お店作りに関わるお仕事ですか?」
「はい。店を作る際に全てを総合的にプロデュースする仕事です」
「素敵なお仕事ですね……」
雪子はそう言った後、自分も自己紹介をした。
「浅井雪子と申します。あ、でもなぜ私の下の名前が『雪子』だとご存知だったのですか?」
雪子がスーパーで着けている名札は名字だけなのに、先程「雪子」と呼ばれたので不思議だった。
すると俊は説明した。
「本をいただいた時、お隣のご婦人が『雪子ちゃん』と仰っていたので」
それを聞いて雪子は納得したようだった。
「お隣は飯村さんという方なのですが先日お聞きしました。探していた本を見つけたと喜んでいた方がいたって」
「はい。あの時は親切にメモ帳とペンを貸して下さいました」
「そうだったんですね」
雪子は飯村夫人がそこまでしていたとは知らなかったので驚く。
「ところで帰省されていた息子さんは大丈夫ですか?」
「はい、先ほど駅で別れました」
「そうですか。大学生?」
「いえ、もう社会人になりました。今年で3年目です」
「って事は25歳くらいかな?」
「そうです」
「美味しい物をいっぱい食べさせましたか?」
「はい、それはもうたっぷりと。今日のランチも鰻が食べたいと言ったので、駅に来る途中鰻を食べました」
雪子は嬉しそうに笑う。
「鰻? この辺りに美味い鰻屋があるのですか?」
「あ、はい。切り通しを抜けて真っ直ぐ駅には行かずに少し手前で右折するんです。右折して数分歩くと、右手に老舗の鰻屋さ
んがあるんですよ。うちは父がいた頃からいつもそこへ行っていました」
「なるほど。いや、まだこちらには本格的に越してきていないので、この辺りの店はよく知らなくて。でもいい情報を聞きまし
た。今度行ってみます」
「プロの方のお口に合うかどうかはわかりませんが、地元では人気のあるお店なんです」
「地元の人が通う店なら間違いないでしょう」
俊はそう言って微笑む。
「一ノ瀬さんはお仕事柄、色々なお店に詳しいのでは?」
「そうですね。でも詳しいのは都内ばかりで、この辺りの店はこれから開拓しないとです。行ってみたい店はいくつかピック
アップ済みですが」
「湘南は美味しいお店が沢山ありますから、是非!」
そこで俊が何かを思いついたように言った。
「良かったら今度一緒にいかがですか? 一人で行くのも味気ないし」
「え?」
「今日助けていただいたお礼に。本のお礼もちゃんとしていないですし」
「いえ、お礼なんて……あの本は父の物ですし、かなり古びた本ですから」
「いえいえあの本はかなり貴重な物ですよ。それを無償でいただいたのですから、せめてお礼にお食事でも」
「…….」
雪子は戸惑っていた。
住む世界が全く違う二人が食事に行っても、共通の話題もないだろうしきっと退屈させてしまうだけだ。
華やかな世界に身を置く俊が、自分みたいな平凡な女と食事に行ってもつまらないだろう。
だから雪子はどうやって断ろうか考え始める。
夫がいるから
親の介護があるから
子供が家で待っているから
仕事が忙しくて
こういった言い訳は全て使えない事に気づき愕然とする。
(そうだ! 習い事をしているからっていうのはどう?)
それも無理なようだ。コーヒースクールは月曜日の午前中だからだ。
その時雪子は気づく。
自分には断る理由が何もない事に。
そしてそれは雪子が何にも縛られない自由の身であるという事を証明していたのだ。
雪子は今、誰もが憧れる自由、誰もが望む自由を完全に自分のものにしている事に気付いたのだった。
コメント
5件
俊さんのセリフですが、 「美味うまい鰻屋」 ↓ 「美味い鰻屋」でいかがでしょう?🙇💦
俊さん聞きだし方が上手い😉雪子さん自身が気付いたように自由なんだから、軽い気持ちでお食事行ってみたらどうかな。今後の俊さんの駆け引きが気になる💓
ゆりあ撃沈💧思い込みで来るからだよ🤭 隠し妻にされた雪子さんは驚き❣️でも俊さんはnice timing👍女神雪子さんのお陰でラッキー🤞としか言いようがない✨ でもお互いの温度差が大きくてお誘いも断る前提の雪子さんをどう捕まえる? 俊さん、頑張って👍❣️