テラーノベル
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避難誘導の最中、海側の廊下で悲鳴が上がった。強い風で開きかけた窓を避けようとして、宿泊客の一人が足を滑らせたのだ。
先に動いたのはゲティだった。
「危ない!」
飛び込むようにしてその客を抱え込み、床へ転がる。窓枠はすぐに閉じられたが、ぶつけたらしい鈍い音が遅れて響いた。
ディアビレが駆け寄ると、宿泊客は青ざめながらも無事だった。けれどゲティは肩を押さえたまま、立ち上がるのに少し時間がかかる。
「大げさに倒れて、客を安心させる芸は得意なんだよ」
そんな冗談を言うものだから、痛くないはずがないのに、周囲は一瞬だけ本気にしそうになる。
ディアビレは眉を寄せた。
「強がらなくていいです」
「いやあ、道化師の意地ってやつで」
いつもの軽口だ。けれど笑顔の端が引きつっている。昔、舞台で涙を見せない道化師だったと語ったあの男は、きっと今夜も同じ顔で立ち続けるつもりなのだ。
ディアビレはゲティの前へしゃがみこんだ。
「泣いていい」
ゲティが目を瞬く。
「泣いたら、役に立たない大人みたいだろ」
「違う。泣けるくらい必死に守ったってことです」
風の音が遠くで鳴る。毛布を配る足音も、非常灯を運ぶガラガラヘビの音も、今だけ少し遠のいたように感じた。
ゲティは口元を歪めた。笑おうとしたのにうまくいかなかった顔だった。それから、こらえていたものがゆっくりほどけるように、目の縁に水が浮いた。
「参ったな……昔は、泣けない方が格好いいと思ってた」
「今は?」
「今は、泣ける方がましだ」
ぽつりと落ちたその本音に、ディアビレは小さくうなずいた。
ゲティは肩を押さえたまま、ようやく涙をひとつこぼした。大げさでも演技でもない、大人の涙だった。
それを見ていた近くの宿泊客が、深く頭を下げる。
守る人間にも、守られるだけの顔をしている時間があっていい。今夜のホテルは、そのことまで受け止めようとしていた。
#恋愛
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