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#海辺の町
夕方になると、皆はそれぞれの持ち場へ散った。享佑は店へ戻り、美恵は帳場、絋規は「もう滑らない」と言い残して写真館へ帰る。離れの縁側には、乾かした写真と、笑いの残り香だけが少し残っていた。
啓介は、束ねた紙を持って外へ出た芽生の背を追った。
芽生は石段の途中ではなく、その少し下の海が見える踊り場に座っていた。風で髪が揺れている。泣いていた跡は、もうほとんど分からない。
「さっき」
啓介が声をかける。
「はい」
「笑ってたのに、泣いてたろ」
芽生は否定しなかった。少しだけ間を置いてから、膝の上の紙を見たまま言う。
「笑うと、緩む時があるんです」
「何が」
「がまんしてたところが」
啓介は隣へ腰を下ろした。すぐ近くなのに、触れられる距離ではない。
「何かあった?」
「あります」
芽生はあっさり言う。
「でも、まだ整理できてません」
その返事は、いつもの芽生らしくもあり、らしくなくもあった。人のことならきれいに整理できる人が、自分のことにはその言葉を使う。
「町、出る話?」
啓介はできるだけ軽く聞いたつもりだった。
芽生は小さく笑った。
「鋭いですね」
「図星か」
「春が終わったら、都会の設計事務所で研修の話があって」
「……そうなんだ」
胸の奥に、小さな石みたいなものが落ちる。
「まだ決めてません」
芽生は続ける。
「もともと戻らない前提で、春休みだけ来たつもりだったんです。なのに、ここにいると、残る選択をしたくなる自分もいて」
「残ればいい、って簡単には言えないか」
「言われても困ります」
「だよな」
啓介は笑おうとして、うまく笑えなかった。
芽生はそんな啓介を見て、少しだけ困ったように目を細める。
「だから、まだ誰にも言いたくなかったんです」
「俺にも?」
「特に、啓介さんには」
その言葉の意味を聞き返す勇気は、啓介にはなかった。
海のほうから、夕方の汽笛が低く鳴る。
時間が進んでいる音みたいだった。
「ごめん」
啓介は結局、それしか言えない。
「何も」
芽生は首を振る。
「謝られることじゃないです」
そう言いながらも、芽生は膝の上の紙を少しだけ強く持ち直した。
啓介は、聞きたいことがいくつもあるのに、一つも口にできない。
笑ってるのに泣いていた理由の、その奥へ入る言葉が、どうしても見つからなかった。
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