テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
ℝ𝕒𝕟
269
こぬぬー(響)
120
グラウンドは乾ききっていた。
前日までの雨が嘘みたいに、水気は引き、白く粉を吹いた土が足元でざらつく。
踏みしめるたびに細かい砂が浮き、靴の中に入り込んでくる。
六限。
体育。
整列した列の中で、遥は一番端に立っていた。
最初からそこに押し出される位置。
その前の時間、教室での空気はまだ身体に残っている。
机に押し付けられた腕の鈍い痛み。
腹の奥に残る重さ。
呼吸が少し浅いまま戻らない。
(……走れるか)
思った瞬間、横から小さく声が落ちた。
「また足引っ張る気?」
笑いを含んだ声。
別のやつが続ける。
「こいつ普段無駄に速いよな」
「今日見ものじゃね?」
その言い方に、すでに前提が含まれている。
“今日は違うだろう”という期待。
教師が前に立つ。
「持久走な」
短く言う。
「手ぇ抜くなよ」
視線が一瞬だけ流れる。
列の端まで。
遥の位置で、わずかに止まる。
「特に遅れるやつ」
名指しではない。
だが、十分だった。
後ろで、くすっと笑いが漏れる。
スタートの合図が鳴る。
一斉に足が動く。
土が跳ねる。
遥も踏み出す。
最初の一歩で、身体の重さが分かる。
思ったより前に出ない。
呼吸がすぐに乱れる。
胸の奥が引っかかるように痛む。
(……だめだ)
普段なら、もう少し前に出ているはずの位置に届かない。
「はやくねえじゃん」
横から声が飛ぶ。
「どうしたの?」
笑いが混じる。
ペースを上げようとする。
足に力を入れる。
だが、踏み込んだ瞬間に腹が鈍く痛む。
さっきの衝撃が、遅れて効いてくる。
息が乱れる。
「ほら、やっぱ無理じゃん」
後ろから声。
「イキってただけかよ」
肩が当たる。
避ける間もないタイミングで。
バランスが崩れる。
踏み直す。
「邪魔」
もう一度、今度ははっきり押される。
体が横に流れる。
コースの外に出かける。
「ちゃんと走れって言ってんだけど」
戻ろうとする。
その瞬間、足元に引っかかる感触。
つまずく。
前に倒れる。
手をつく。
乾いた土が皮膚を擦る。
膝も打つ。
鈍い衝撃。
息が一瞬で抜ける。
後ろから、笑いが落ちてくる。
「うわ、ダサ」
「何してんの?」
立ち上がろうとする。
手に力を入れる。
その背中に、重さが乗る。
靴底。
体重がそのままかかる。
「そのままでいいじゃん」
押される。
前に。
「ほら、進めよ」
四つん這いのまま、身体がずれる。
土が擦れる。
「遅いって」
もう一度踏まれる。
さっきより強く。
息が詰まる。
声が漏れる。
「やっと声出た」
笑いが広がる。
「普段出さないくせに」
(やめろ)
頭の中でだけ言う。
顔を上げようとする。
「下向いとけよ」
押さえられる。
後頭部に圧がかかる。
土の匂いが近い。
周りの足音が通り過ぎていく。
誰も止まらない。
教師の声が飛ぶ。
「何やってる」
一瞬、動きが止まる。
だが、すぐに続く。
「ふざけてるのか?」
方向が決まる。
背中の重さが消える。
「さっさと立て」
遥は腕に力を入れて起き上がる。
手のひらに砂が食い込んでいる。
膝も擦れている。
「最初から真面目にやれ」
教師の声は、さっきと同じ温度だった。
状況を見ていないわけじゃない。
だが、切り取る部分を選んでいる。
後ろで、
「それな」
小さく声が重なる。
「マジで邪魔なんだよ」
また走り出す。
足が思うように出ない。
呼吸が浅いまま戻らない。
横を抜かれるたびに、軽く当たられる。
避ける余裕がない。
「避けろよ」
言われる。
避ける場所はない。
全員がゴールしたあと、少し遅れて線を越える。
視線が一瞬だけ集まる。
教師が記録を見て、顔をしかめる。
「お前」
呼ばれる。
「何だ今の」
問いではない。
責めるための形だけの言葉。
「……すみません」
それしか出ない。
「やる気あるのか?」
返事は求められていない。
「もう一本行け」
決定。
周りから、小さくざわめきが起きる。
「罰ゲームじゃん」
「ウケる」
笑いが混じる。
遥はスタート位置に戻る。
足が震えているのが分かる。
膝の擦り傷に、砂が入り込んでいる感覚がある。
それでも、止まる理由にはならない。
ここでは、速いか遅いかは関係がない。
遅くなった理由も関係がない。
ただ、誰かの苛立ちが流れる先として、そこにいるかどうかだけで決まる。
さっきまで向けられていた空気が、そのまま形を変えて続いている。
合図が鳴る。
遥は、もう一度走り出した。
コメント
1件
お疲れさまです、第3話読みました。 体育の授業の空気感が、本当に生々しくて苦しかったです。乾いたグラウンドのざらつきや、呼吸が浅いまま戻らない感じ、身体感覚の描写が細やかで、読んでいるこちらまで息苦しくなりました。 特に「遅くなった理由も関係がない。ただ、誰かの苛立ちが流れる先として」という一文が胸に刺さりました。集団の残酷さと、先生が“見えるものだけ”を切り取る選択の温度が、静かに突き刺さります。 遥がもう一度走り出すラスト、言葉にできない痛みが詰まっていて、次の展開が気になりました。続きを大事に読ませてくださいね。