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週が変わった月曜の朝、本社三階の空気はどこか落ち着かなかった。
防犯ブザー「夜道まもる」の外装は再試験を通り、スナップボタン付きマルチポーチも子どもの指で留めやすい形へようやく近づいている。親子向け小冊子「まちのあんしん図鑑」も、売場担当から「これなら声を掛けながら読めそうですね」と返事が来た。仕事だけ見れば、ここ数日でいちばん前へ進んでいる朝だった。
それなのに、晴哉の胸の内は、少しも軽くならなかった。
麗とは必要な会話しかしていない。いや、正確には、自分が必要な会話だけにしてしまっていた。
「この表、先方用に文言を揃えておきました」
「ありがとうございます」
「ボタンの再確認、十四時に試験室です」
「分かりました」
それだけで業務は回る。回ってしまうからこそ、余計な一言を差し込む隙がない。晴哉はモニターを見つめながら、昨夜のうちにもっとちゃんと理由を伝えるべきだったのだと何度目かの後悔を噛みしめた。
その頃、給湯室では別の話が転がっていた。
妃雛が紙コップのコーヒーを持ったまま、夢鈴に向かって言う。
「でもさ、最近あからさまじゃないですか。晴哉さん、進行管理の人にだけ妙に距離あるっていうか」
「誰にでも必要以上に近い人が、急に普通になっただけとも言えるけど」と夢鈴が返す。
「いや、普通より遠いですって。もしかして苦手なんじゃないですか、麗さんのこと」
ちょうどそこへ入ってきた悠太朗が、思いきり顔をしかめた。
「おいおい、その言い方は雑すぎる」
「雑かな?」
「かなり雑。そういうの、本人たちの前で言う話じゃないからな」
「だって、見てたら分かるじゃないですか」
「見て分かった気になるのが一番危ないの」
悠太朗の声はいつもより低かった。妃雛もさすがに押し切れず、口をつぐむ。だが、一度形になった言葉は、湯気みたいにすぐには消えない。
昼前、その断片が、偶然に近い形で麗の耳へ入った。
会議室前のコピー機で資料をそろえていた時、廊下の向こうから妃雛の声だけが途切れ途切れに流れてきた。
「……晴哉さん、麗さんのこと……苦手……」
全部は聞こえなかった。けれど、全部を聞く必要もなかった。
麗は紙を持つ指にわずかに力を入れ、そのまま何もなかったように会議室へ戻った。心臓のあたりが一度だけきつく縮んだが、表情に出すほど幼くはない。そう自分に言い聞かせて席に着く。
午後の打ち合わせでは、試作品を社内モニターへ配る手順と、図鑑の最終見出しの確認が進んだ。優元は「ここまで来たら、あとは現場の再調整で吸収します」と言い、知雅も「配布先の年齢差だけ見直せば大丈夫」と補足する。夢鈴は売場用の紹介動画に、例の古い販促ジングル「終わらないLOVE SONG」の短いフレーズを仮で当て込み、悠太朗は取引先への見せ方を整理した。
仕事は、誰の感情も待たない。
会議が終わる頃には、夕方の斜めの光がブラインドの隙間から床に細く落ちていた。
「晴哉さん、配布先のリスト、少しだけいいですか」
最後に声を掛けたのは麗だった。ごく事務的な口調だったので、晴哉も普段通りにうなずいた。
会議室に残ったのは二人だけになる。長机の上には、子どもの年齢別に色分けされた配布表と、試作品のチェック表が並んでいた。窓の外では、春らしい風に古い街路樹が少し揺れている。
麗は椅子に座らないまま、表を指先で押さえた。
「弟さん向けの試用分、追加で一個回せそうです。年齢が近いので、使い方の感想が取れると思います」
「助かります。知雅さんにも伝えておきます」
「お願いします」
それで終わるはずの会話だった。
だが、麗は紙を重ねたあとも、その場を動かなかった。
晴哉が顔を上げる。
「……どうかしましたか」
麗は少しだけ視線を落とした。答えるまでの間が、いつもより長い。
「一つ、確認したいことがあります」
「はい」
「業務に関係ないことかもしれません。でも、関係ないままにもできなくて」
晴哉の喉がわずかに詰まる。何を問われるのか、分かってしまった気がした。
麗はゆっくり息を吸った。
「私、晴哉さんに嫌われてると思ってたんです」
窓の外で車の走る音がした。遠くで誰かが笑っている。なのに会議室の内側だけ、別の空気になったように静かだった。
晴哉はすぐに言葉を返せなかった。
本当なら、違いますと即座に否定しなければならない場面だった。嫌ってなんかいない。むしろ気になっている。夜の仮眠室の静けさが、まだ胸の奥に残っている。そんなことは、自分がいちばん分かっている。
それでも口が止まったのは、ここ数日の自分が、そう思われても仕方のない動き方をしていたからだ。
理由を言わずに席を外した。短い連絡だけ残した。何もなかったことに合わせて、そのまま距離を置いた。相手を困らせないつもりでやったことが、結局は相手を一人で悩ませる形になっていた。
沈黙が長くなる。
麗は自分の言葉の行き場がなくなる前に、少しだけ早口になった。
「変な意味で言ってるわけではありません。仕事がしづらいとか、そういう話でもなくて。ただ、必要なことだけになってから、私が何か気に障ることをしたのかと考えて」
「麗さんは、何もしてません」
やっと出た声は、思ったより低かった。
麗は晴哉を見た。その目は責めていない。責めていないからこそ、晴哉は余計に苦しかった。
「じゃあ、どうしてですか」
晴哉は答えようとして、言葉を選び損ねた。
実家のこと。父の腰痛。店の仕込み。大丈夫と言い続けてしまう癖。仮眠室で返せなかったありがとう。どこから話しても、言い訳に聞こえそうだった。
「……ちゃんと説明しなかった俺が悪いです」
ようやく絞り出したそれは、理由ではなく、謝罪に近かった。
麗の指先が、持っていた配布表の端をきゅっとつまむ。
「そういうの、いちばん困ります」
声は大きくなかった。でも、まっすぐだった。
「理由を言わないで謝られると、こっちは余計に考えます。仕事のことで足りないなら直せます。でも、何も言われないと、直しようがない」
晴哉は言い返せない。
麗は一度だけ目を閉じ、それから静かに続けた。
「私、時間を守るのは得意です。遅れたものを立て直すのも、たぶん得意です。でも、人の気持ちは表みたいに並べ替えられないから」
そこで言葉が切れた。普段ならそこで立て直す人が、立て直さない。
「だから、嫌われてると思ったまま仕事するの、結構きつかったです」
晴哉の胸の奥が、鈍く締めつけられた。
相手にそんなふうに言わせるところまで来ていたのか、と遅れて実感する。守るために黙ったつもりだった。余計な負担を掛けないつもりだった。けれど、それはただ、自分の都合の悪さを見せなかっただけなのかもしれない。
「……ごめんなさい」
また同じ言葉しか出ない。
麗は首を振った。
「謝ってほしいわけじゃないです」
その一言のほうが、怒られるより痛かった。
会議室の空気が冷えていく。ブラインドの隙間から差していた光も、もう細くなっていた。
麗は配布表を机の上に置き、きちんと端をそろえる。
「試用分の件、知雅さんへの共有だけお願いします」
「……はい」
「それだけです」
もう業務の声に戻っていた。
麗は一礼して会議室を出る。扉が閉まる直前、ほんの一瞬だけ足が止まったように見えたが、振り返りはしなかった。
晴哉はその場で数秒動けなかった。
追いかけなければならない。
今ここで理由を話さなければ、本当に取り返しがつかなくなる。
そう思って扉へ向かった、その時だった。
ポケットの中でスマートフォンが震えた。
画面に出たのは、父の名前だった。
嫌な予感が喉の奥を一気に冷やす。晴哉はすぐに通話へ切り替えた。
「もしもし」
向こうで祖母の慌てた声がする。受話器が何かにぶつかる音。少し遅れて、父の浅い息が聞こえた。
「晴哉か。悪い……ちょっと、動けなくてな」
晴哉の足が止まる。
「どうしたの」
「店の裏で、腰……いや、腰だけじゃないかもしれん。立とうとしても力が入らなくて」
会議室の扉の向こうには、たった今出て行った麗がいる。
手の中のスマートフォンの向こうには、助けを待っている家がある。
晴哉はその場に立ち尽くした。
さっきまで胸の奥にあった言葉が、全部別の重さに押し流されていく。
春の夕方は、明るいくせに、肝心なところだけ見えなくなる。
晴哉は扉に伸ばしかけた手を握り直し、低く息を吐いた。
今、どちらへ先に走るべきか。
答えはもう出ているのに、その答えがこんなにも苦しいとは思わなかった。
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