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#すれ違い
おまる
#ワンナイトラブ
父はぎっくり腰に近い症状だった。
その夜、晴哉が店へ駆けつけた時、父は裏口近くの丸椅子に座り込んでいた。医者には、しばらく安静にするよう言われた。明日の朝仕込みを一人で任せるわけにもいかない。
「悪いな」
父は何度もそう言ったが、晴哉は首を振るしかなかった。
悪いのは父ではない。会社でも家でも、何もかも一人でうまく回るみたいな顔をしていた自分のほうだ。麗に言葉を返せなかった会議室の沈黙が、帰宅後もずっと胸の中に残っていた。
翌朝、晴哉はいつもより早く店に入り、仕込みを手伝ってから会社へ向かった。始業ぎりぎりで席に着くと、三階の打ち合わせスペースには試作品が並べられていた。
優元が、防犯ブザーの新しい外装を手に取る。
「昨日の落下試験、改良版は通りました。音量も問題なし。あとは実際に子どもが持って歩いた時、ひもが引っかからないか、引き手の形が分かりやすいか、その確認が要ります」
知雅が資料をめくる。
「麗さんの弟さんの分、もし可能なら今日か明日で試せると助かります。下校後の暗い道に近い条件が欲しいので」
麗は一瞬だけ手を止めた。
「今日は塾の日なので、帰りが少し遅くなります。それでもよければ」
「じゃあ、俺が届けます」
晴哉は反射みたいに口を開いていた。
「説明もいるなら、営業推進から渡したほうが早いですし。帰り道、駅の近くまで持っていきます」
麗は晴哉を見た。昨日の痛みが消えたわけではないはずなのに、その目にはまず進行確認の色があった。
「……では、十九時二十分に東口の時計台前でお願いします。弟を迎えに行く途中に受け取ります」
「分かりました」
午後はあっという間に過ぎた。図鑑の見開きに入れる言葉を微調整し、試作品に付ける注意書きを知雅と詰める。麗とも必要なやり取りはしたが、どちらもきれいに仕事の言葉だけを選んだ。
十九時を少し回ってから、晴哉は防犯ブザーの改良試作品を二つ、小さな封筒に入れた。一つは弟用、もう一つは予備だ。引き手は以前より大きく、暗いところでも指がかかりやすいよう角が丸めてある。
駅前は仕事帰りの人で混んでいた。時計台の下で待っていると、十九時二十分きっかりに麗が現れる。
「お待たせしました」
「今来たところです」
封筒を差し出すと、麗は両手で受け取った。
「ありがとうございます。弟に、引く練習までやらせてみます」
「怖がるようなら、無理しなくて大丈夫です」
「そういうところは、ちゃんと言うんですね」
言葉の先が少しだけやわらいでいた。だが、それ以上話す時間はなかった。麗は時計を見て、駅の先にある細い通りへ目を向ける。
「すみません、急ぎます。最近この辺り、不審な声掛けが続いていて」
晴哉はうなずいた。じゃあ、と言いかけたところで、結局、予備の封筒も鞄から出した。
「こっちも持って行ってください。もし不具合があった時、比べられるので」
「……助かります」
麗は軽く会釈して歩き出した。速いが、走らない歩き方だった。その背中を見送ったあとも、晴哉はすぐに改札へ向かえなかった。
昨日の会議室の続きを、まだ何ひとつ話していない。
晴哉は少し迷ってから、通りを一本隔てた歩道を同じ方向へ進んだ。追いかけるためではない。せめて、弟を迎える道の途中までは何も起きないと確かめたかった。
駅前の明るさが切れると、道は急に静かになった。住宅街の角にある小さな公園、その先の細い坂道。街灯はあるが、木の影で足元が暗い場所もある。
少し先を歩く麗が、ふと足を止めた。
通りの向こう、電柱の陰に人影が見えた。だが、その影は麗が進む側へ半歩だけ動いた。
「……すみません」
男の低い声がした。道を尋ねるような調子にも聞こえたが、距離の詰め方が近い。麗の肩が強くこわばるのが、離れた位置からでも分かった。
次の瞬間、鋭い電子音が夜の空気を切り裂いた。
防犯ブザーだった。
麗は受け取ったばかりの試作品を、迷いなく引いていた。細い通りに音が反響し、近くの窓が開く。男は舌打ちに近い息を吐き、背を向けて角を曲がるように去っていく。
晴哉はその時にはもう走っていた。
「麗さん!」
駆け寄ると、麗はまだ防犯ブザーを握ったまま立っていた。音を止めようとして、うまく手に力が入らないらしい。
晴哉は「貸してください」と短く言い、引き手を元に戻した。音が止まった瞬間、夜はさっきより深く静かになった。
「大丈夫ですか」
麗はすぐに答えなかった。呼吸が浅い。いつもまっすぐな背中が、ほんの少しだけ頼りなく見えた。
「……大丈夫、です」
そう言う声が、全然大丈夫な声ではなかった。
「今のは、大丈夫じゃない時の言い方です」
麗が唇を噛んだ。次の一息で、張っていたものが急にほどけたように肩が落ちる。
「怖かったです」
小さな声だった。
「鳴らせてよかった」
それしか言えない自分がもどかしい。けれど麗は、その一言を確かめるみたいに繰り返した。
「……鳴らせて、よかった」
少し遅れて、塾のある通りの向こうから小さな足音が駆けてくる。麗の弟だった。事情を簡単に説明すると、少年は顔を強ばらせたが、麗がしゃがんで「もう大丈夫」と言うと、こくりと頷いた。
駅の近くまで三人で戻ることにした。弟を真ん中に挟んで歩きながら、晴哉はさっきのブザーを見た。引き手は以前より握りやすくなっている。音も十分だ。仕事としては、小さくない前進だった。
弟をマンションの前まで送り届けると、少年はエントランスの明かりの中で一度だけ振り返った。
「ありがとうございました」
礼を言って中へ入っていく背中を見送り、晴哉と麗は建物の前に残った。遠くで電車の通る音がする。
麗は手の中の防犯ブザーを見つめたまま言った。
「私、さっき、ちゃんと引けるか少し不安だったんです」
「でも引けました」
「はい。でも、引いた瞬間、情けないくらい安心しました。音が鳴いたことじゃなくて、誰かに気づいてもらえるって思ったことに」
晴哉は返事の代わりに、ゆっくり息を吐いた。
子どもの頃の記憶が、不意に胸の底から浮いてくる。配達帰りの夜道で、段差につまずいて転びそうになった自分の手を、母がすぐ横から支えた。
「俺、昔、夜道で転びそうになったことがあって」
麗が顔を上げる。
「その時、母に言われたんです。大丈夫、歩幅を合わせれば転ばないって」
麗はしばらく何も言わなかった。やがて吐く息に混ぜるみたいな声で言った。
「その言い方、ずるいです」
「え」
「そういうふうに言われたら、少しだけ……力を抜いてもいい気がするので」
責めているようで、責めていない声だった。
「昨日、言えなくてすみませんでした」
今度は麗が遮らなかった。
「父が動けなくなって、実家に戻っていました。でも、それだけじゃなくて、ちゃんと話すのを先延ばしにしてたのは俺です」
麗はうつむき、手の中の防犯ブザーを親指でなぞった。
「……避けられてるのかと思いました」
「避けてないです」
今度は、すぐに言えた。
それ以上を急いで足すと、まだ形になっていないものまでこぼれそうで、晴哉はそこで止めた。麗も追及しなかった。ただ、昨夜より静かな顔でうなずいた。
マンション前から駅へ戻る道は、来た時より少しだけ明るく見えた。二人は並んで歩く。どちらかが無理に早めることも、待ちすぎることもなかった。
細い坂を下りる手前で、麗がふと足元を見た。
「今、同じ速さですね」
晴哉も一歩進み、隣の足音を確かめる。
たしかに、気づけばずれていなかった。
何も言わないまま、二人はそのまま駅の灯りまで歩いた。
夜はまだ冷たかったけれど、さっきまでの息苦しさだけは、少し遠ざかっていた。
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