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深夜、人気の消えた回廊でセルマがジナウタスを呼び止めた。窓の外では細い雨がまた降り出し、ガラスに細かな筋を作っている。彼女は扇ではなく、革張りの古い台帳を胸に抱えていた。
「夜勤責任者にしては、ずいぶん高いところの話に口を出すのね」
ジナウタスは歩みを止めたが、振り返る動きは遅かった。
「用件だけどうぞ」
「あなたのお母さまも、そうやって静かな顔で損を引き受ける人だったわ」
その一言で、空気が変わる。
セルマは台帳を開きもしないまま続けた。
「創業家の名前は立派でも、あの人は最後まで選ばれきれなかった。表に立てば誰かが噛みつく。隠れれば臆病者と笑われる。あなたも同じでしょう」
ジナウタスの目が冷えた。怒鳴らない。近づきもしない。ただ、少しだけ声が低くなる。
「死んだ人を道具にするな」
「道具にされる家に生まれたのよ、あなたもあの人も」
セルマは薄く笑った。「だから忠告してあげてるの。あの娘まで巻き込めば、結局つぶれる」
それ以上は返さず、ジナウタスは踵を返した。廊下を抜け、裏口から外へ出る。雨は先ほどより強い。傘を取ることさえしなかった。
港へ向かう石畳を歩きながら、彼はようやく深く息を吐いた。創業家の名。相続。母の背中。どれも守るためのものだったはずなのに、気づけば人を縛る鎖みたいに手首へ巻きついている。
「……嫌いになれたら楽だった」
雨の中へ落ちた声は、すぐににじんだ。誰に聞かせるでもない独り言だった。
けれど次の瞬間、ルナ・マグの灯りが遠くに見えた。あの小さな明かりの前では、弱音をそのまま持ち込むことができないと分かっている。
ジナウタスは立ち止まり、濡れた前髪をかき上げた。そしてそのまま、灯りの反対側へ歩き出す。
今夜の彼は、ディアビレの前ではなく、雨の中に一人で立つ方を選んでいた。
#恋愛
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