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窓の外に見える夕焼け空が少しづつ夜の雰囲気に近付いてきた。ふと馬車の速度が少し速くなってきている事が気に触りだした。ガタガタと馬車が揺れ、少しでも大きな石があったりでもすると、この速度のせいで車体がガタンッと大きく跳ねたりもする。
(…… どうしたんだろう?)
いくら馬車に乗り慣れていない私でも気になるくらいに様子がおかしい。だがちょっとでも私が不安を口にすれば、『大袈裟だ』と怒りを買いそうなので黙ったまま心配していたのだが、どうもティアンも同じ様に思っていたみたいだ。
「すみません、もう少し速度を落としてもらえないかしら。妹が酔ってしまって可哀想なの」
御者台に続く窓をノックし、ティアンが落ち着いた優しい声色で話し掛け、私を気遣う体で要求を伝える。流石は聖女候補だ。顔に大きな火傷の痕があるせいで、すっかり屋敷に引き篭もっている私にまで優しい姉のふりをするのが本当に上手い。さっきまで私にあれこれと文句を言っていた声や頬を扇子で叩く音を、今まで御者に聞こえてはいなかった保証は何処にも無いのに。
「…… ?」
姉が声を掛けたのに御者からの返事が無い。それどころか、また大きく車体が揺れ、今のは流石に『横転する!』と思った程だった。
不審に思ったティアンが慌てて御者台に続く小さな窓を開く。すると、御者が座っているはずの場所には何故か誰も居らず、無駄に速度を上げ続けている馬の姿だけが目に入った。
「——ちょっと!どういう事なのよ!」
ヒステリックなティアンの声が耳奥に刺さる。そんな事を叫ばれても私にだってわかるはずがなく、状況が読めずにただひたすら『知らない』と首を横に振った。
「ど、どうしたらいいの?ねぇ、ねぇ!アンタが止めてよ!どうにかして!」
無茶を言わないで欲しい。制御不能に落ち入り、どう見たって完全に暴走している二頭の馬をどうこうだなんて、名ばかりの公爵令嬢には土台無理な話だ。『どうにか』と言われてもせいぜい馬車から飛び降りるくらいしか思い付かない。だが、ドレス姿の女性二人が無計画に馬車から飛び降りたって絶対に無事では済まないだろう。そもそもこの速度では命の保証すら無く、賢明な判断とは言えない。だからって、このまま傍観していても助かる見込みは皆無だ。
「…… も、もしかして…… まさか、え?」
こうなった理由にでも思い至ったのか、ティアンの表情が一気に変わる。
「で、でも、きょ、今日とは指定していないわ、ちゃんと書いたもの…… 何で、何で何で何で——」
いつも綺麗に整えさせている爪をガリガリと噛み、真っ青な顔でブツブツ何かを呟いている。何やらいつもみたいに悪巧みをしていたけど指示にミスがあって失敗したのかもしれないが、今はそんな事を気にしている場合ではない。
(汚い字で書いたせいで、相手が読み解けなかったとかでもあったのかな)
いつも『聖女候補』である事を笠に着て、何から何まで他人任せで甘えに甘えて勉強すらも疎かにしてきたツケが最悪な形で一身に襲い掛かってきたのかもしれない。だがティアンがこの状況をそう受け止める事はきっと一生無いだろう。
そうこうしている間も馬車は暴走し続けている。しばらくは一本道が続いていたが、木々の右奥にシリウス公爵家の屋根が見え始めたから、そろそろそれも終わりが近いはずだ。
不安を胸に抱えたまま御者台に通じる小さな窓の奥に見える景色に注意を割いていると、予想通りパッと景色が空ばかりになり始めた。
崖が、近付いている。
道なりに曲がらなければ、このままでは馬車ごと崖から落下してしまうとすぐに察した。時間がもう無い。実は私だけちょっとは魔法を使えるのだが、残念な事にせいぜい生活魔法程度だ。体を綺麗にしたり、水を飲める状態にまで浄化したり、コンロに火をつけたり…… 一人で生きるには便利な力だが、今の状況では何一つとして役に立たない能力である。
(どうしよう、どうしようどうしようどうしよう——)
気持ちばかりが焦り、目の前の現実にただ呆然とするばかりだ。祈るみたいに手を組み、馬車の隅で体を縮める。痛いのは大っ嫌いだ、好きな人なんかほとんどいないだろうけど。
(このまま死ぬのなら、せめて一瞬で終わって欲しい)
そう思い、瞼を強く瞑る。
「いやぁぁぁぁぁぁぁ!メンシス様、助けて、お願いぃ!」
悲鳴みたいな声で姉が婚約者の名前を叫び、頭を抱えて助けを求める。そんな姉が、ちょっとだけ羨ましく思えた…… 。
私にだって子供の頃には婚約者がいたのだが、今はもういない。そもそも愛し愛されてもいなかったのだから、今も健在だったとしても、『助けて』とは願わなかっただろうけど。
こんな危機的状況に追い込まれても縋る相手すら存在しない事実が心に重くのしかかる。そんなふうに叫んだどころでこんな森の中ではどうにもならないけど、それでも、頼りたい相手がいるという立場は嫌われ者の私には決して手に入らぬものだ。羨ましいと思うのは致し方のない事だろう。
「し、死にたくないぃぃ!——アンタのせいよ、アンタが、アンタが全部悪いんだ!!!」
叫ぼうが喚こうが他者のせいにしようが、この状況が変わるはずがない。だけど、達観も覚悟を決める事も出来ずに姉が大声で私を罵倒する。
「…… そうだ…… アンタが死ねば、ワタシの神力が目覚めるんじゃない?そうよ、そうだわ、双子に生まれたせいで、アンタがワタシから神力を奪っていたのよ。今すぐ死んで、返して!ワタシのものよ!返して、返して、返してぇぇぇぇぇぇ」
ティアンから責められる事には慣れているが、首を強く絞められ、体を激しく揺さぶられながらは初めての事だ。
姉が言うように、神力があれば、聖女として目覚めれば、確かに助かるだろう。
それ程までに『聖女の神力』は万能に近い能力らしい。だが、そんな事をしたって、まさに『神の力』である神力は決して目覚めない。『他者を貶めて得られる様な物ではない』のだと、先程神殿で、私にだけ神官が耳打ちをしてきたから知っている。
力の系統は違えども、古い文献に書かれていた双子も結局、『コイツを殺せば力は自分だけのものになるのでは?』という考えに行き付き、二人は殺し合ったそうだ。だけど結果は生き残った方に力が集約されるなんて都合の良い事にはならなかった。一人になって、力も失い、身勝手な殺人犯として処刑されてしまっただけだった。
(『コイツなら姉を殺しかねない』と思った神官が私にだけ釘を刺してきたのだろうけど、この話を知るべきはティアンの方だったみたいね)
「アンタのせいだ、アンタが悪い!お前だけが死ねぇぇぇぇ!」
崖から落ちそうになっている馬車の中で、そう責めらては手も足も出ない。もし今抵抗したとしても、結局は転落死するのならもう、このままでいた方がマシな気がしてきた。
「アンタに奪われていた神力を取り戻したら、メンシス様はワタシの全てを愛してくれるわ、幸せになるの!ふふ、ふふふふふっあはははははは!死んで、死んでよぉぉ、返してぉぉぉ、ワタシのなのよぉ!」
(…… あぁ、私は『また』死ぬのか——)
焦り、怒り、恐怖、そして期待に染まるティアンの顔を見上げながら私は、『コレが本当に、私の生の最後でありますように』と心から願った。