翌朝、詩帆は朝早く起きるといつものように画材を手にしてアパートを出た。
今日も天気は良さそうだ。
早朝の海通いを始めてからほぼ毎日晴れている。
詩帆はこの朝のルーティーンを始めて良かったと思っていた。
海の表情は、光の加減や雲の量、湿度や気温、そして風の具合により微妙に変化する。
その微妙な変化を絵で表現するのは難しいけれど、とてもやりがいがある。
毎日描き続ける事で、確実に何かを得ているような気がした。
画家をしている祖父も、こうやって自然の中の機微を捉えてきたのだろうか?
詩帆は自転車を漕ぎながらそんな事を思った。
海に着くといつもの場所にシートを広げて画材を並べる。
そしてその横に座ってからスケッチブックの真っ白なページを開いた。
ちょうどその時、雲間から太陽が姿を現した。
(今日は雲が多い…)
詩帆は一心に鉛筆を動かし始めた。
耳に聞こえるのは波の音と鉛筆のサラサラという音だけ。
その心地良いリズムを聞きながら、詩帆は集中して描き続ける。
その時、詩帆から十数メートル離れた場所にボードを手にした涼平が現れた。
海には既に何人かのサーファーが浮かんでいる。
今日の波はあまり大きくはなかったが、出勤前に海に入れる喜びを味わいたくて涼平はあえて来た。
それから涼平はボードを抱えたまま小走りで海へ入って行った。
残念ながら、この日の波はダンパー気味だった。
それでも涼平は根気よく波の切れ目に垂直にノーズを入れ、ターンを急激に切って攻めてみる。
しかし長くは粘る事が出来ず、あえなくフェードアウト。
何度もトライしてみたが、思ったようなライディングは出来なかった。
自然っていうやつは、自分の思う通りにはいかないものだ。
でも、だからこそ自然と遊ぶ事は楽しいし、その予想もつかない展開にワクワクする。
今日はもう上がろうと、涼平はボードを手にして砂浜を歩き始めた。
すると、この前の場所に女性が座っている事に気付く。
やはりその女性はカフェ店員の詩帆だった。
詩帆の手元を見た涼平は、詩帆が何をしているのかがわかった。
彼女は絵を描いていたのだ。
詩帆は海を見つめながら一心に筆を動かし続けていた。
涼平は詩帆の事が気になったので、そのまま近づいて行った。
その時詩帆は、デッサンの着彩の仕上げに入っていた。
スケッチブックには、目の前の風景がまるで切り取られたかのように再現されていた。
空を覆う雲、そして雲の隙間から太陽が差し込む様子が見事に表現され、
海の青のグラデーションもきちんと捉えられている。
最後の筆を入れた後、詩帆は右下にサインと日付を書き込んでから満足気に絵を眺めた。
その時、砂の上を歩いて来る足音が聞こえた。
詩帆が振り返ると、そこにはカフェでビンタされた男性がいた。
手にはサーフボードを手にしている。
「あっ!」
詩帆は思わず声を漏らす。
「おはよう! この間は保冷剤をどうも!」
「あ、いえ、なんか赤く腫れていたので…」
詩帆が少し遠慮がちに言うと、涼平はハハッと笑いながら言った。
「絵を描いているの?」
「はい。毎朝この時間の海を描いているんです」
詩帆はそう言ってスケッチブックを涼平の方へ向けた。
その絵を見た涼平はびっくりした。
一目見て、それが素人の絵ではない事がわかる。
「凄い上手だね。もしかして、美大とか出ているの?」
「はい」
「ほんと凄いな。他の絵も見せてもらってもいい?」
詩帆は頷くと、スケッチブックを涼平に渡す。
それを受け取った涼平は一枚一枚絵を見ていった。
どれも同じ場所を描いたものなのに、全て違う表情を見せている。
「凄いな。さすがプロだ。素晴らしい!」
涼平は感動しながらスケッチブックを詩帆に返した。
「プロではないですが…ありがとうございます」
詩帆は礼を言った。
そして今度は詩帆が聞く。
「サーフィンですか?」
「うん。最近この近くに引っ越して来たので、出勤前にちょこっとだけ」
涼平はそう言って微笑みながら腕時計を見る。
「おっと、もうこんな時間か。家に戻ってシャワーを浴びないと! カフェに行ったらまた会えるね、じゃあまた!」
涼平は笑顔で手を振りながらその場から立ち去って行った。
涼平の後ろ姿を見て、涼平の日焼けやガッチリした体型はサーフィンによるものなのだとわかった。
そして涼平がカフェによく来るのは、彼がこの町の住人だったからなのだ。
(ご近所さんだったのね…)
その時、今度は詩帆がハッとしてスマホの時計を見た。
そして慌てて片付けを始める。
片づけを終えると、詩帆は急いでアパートに戻った。
朝食がわりに慌ててバナナを口に放り込むと、身支度を整えてからカフェへ急ぐ。
今日の詩帆のシフトは早番だったのだ。
必死に自転車をこいだのでなんとか遅刻せずに済んだ。
店に入ると、詩帆はいつもの落ち着きを取り戻し開店準備を始める。
開店時刻が近づくと、店内には音楽が流れ始め、コーヒーの良い香りが漂ってきた。
そして時刻はオープンの七時を迎えた。
オープンと同時に、四、五名の客が一斉に入って来る。
詩帆がカウンターで順番に接客を続けていると、漸く最後に並んでいた客の番が来た。
詩帆は笑顔で「おはようございます」と挨拶をすると、そこには涼平が立っていた。
涼平はシャワーを浴びてきたのだろう。さっぱりとした様子だった。
服装は白のTシャツに細身のジーンズ、その上に黒のジャケットを羽織っている。
そしていつもの黒のリュックを手にしていた。
「どうも。お互い忙しい朝だったね」
「はい」
詩帆はクスッと笑って答えた。
「コーヒーのグランデとマフィンをひとつ」
注文を受けた詩帆は笑顔で返事をすると、すぐに準備に取り掛かる。
そして会計を終えるとトレーを涼平に渡した。
涼平はありがとうと言って窓辺の席へ向かった。
詩帆は、今日二度も涼平に会ったので驚いていた。
早朝の海での出逢いは、涼平のイメージを思いのほか爽やかなイメージへ塗り替えてくれていた。
そこに女性にビンタされた情けない涼平の姿はなかった。
詩帆はあの日の事を思い出し、思わずクスッと笑った。
コメント
2件
それにしほちゃんは涼平さんの本意みたいな部分をしっかりと見てる❣️絵を描く人って奥の奥まで見えるのかな、凄いなぁ👍⭐️
自然と遊ぶために🌊に出る涼平さんと自然を捉えてキャンバス🖼️に残す詩帆ちゃん🍀 どちらともなく海🌊で接点があるってステキ✨