「急すぎでしょ。考える時間くらい――」
「あきらが考えると、ろくなことにならないのはわかりきってる。だから、今すぐ、この場で決めてくれ」
そう言いながら、龍也はジャケットのポケットから、茶封筒を取り出した。更に中から薄い三つ折りの紙を取り出し、丁寧に広げていく。広げ切る前に、その紙が何なのか、わかってしまった。
半透明の薄さ、透ける茶色の枠、そして、その枠の中に黒字で書かれた龍也の名前。
婚姻届――――。
テーブルの、スマホの横に広げられたそれは、間違いなく婚姻届で、夫の欄は記入済み。
龍也が私を見つめているのはわかるのに、私は婚姻届から目が離せない。
「俺はもう、あきらとは恋人とか友達とかでいたくない。まして、遠距離恋愛なんて絶対嫌だ! だから、結婚して。家族になろう」
「なんで……? 今すぐじゃなくたって――」
「――言っただろ。俺は一生かけてあきらに気持ちを伝えていくつもりだ。けど、それは、あきらの気持ちが俺と同じ時だけだ」
「どういう――」
「――一方通行は、もう嫌なんだ」
「そんなこと――っ!」
「俺はもう、一時もあきらと離れていたくない。あきらは? 札幌と釧路に離れて、何か月も俺と会えなくても平気か?」
今までも、何か月も会わない時があった。それこそ、半年会わない時も。
けれど、あの時とは関係性が違う。
だから、平気なわけはない。わけはないけれど、結婚となると躊躇してしまう。
「それは――」
「――もしそうなら、俺とあきらの気持ちは同じじゃない。だったら、別れる。今、この場で、終わりだ」
おわ……り――。
ズシンッと心臓に響く低音。
漬物石が直撃したような、衝撃と鈍痛。
私を見つめる彼の表情を見れば、それが本心だとわかる。
私の返事次第で、本当に龍也は去ってしまう。
やっと、自分の気持ちに素直になれたのに、最後の一歩が踏み出せなくて終わりだなんて。
けれど、最初の一歩を踏み出したのもつい最近の私には、最初の一歩の次が最後の一歩だなんて、ハードルが高すぎる。
「我儘を言っているのはわかってる。あきらにも仕事があって、それを辞めて、みんなとも離れてついて来てくれなんて、都合良過ぎなのも。だけど、頼む。ついてきて欲しい。俺のそばにいて欲しい。一度でいいから、あきらの意思で俺を求めてもらいたい」
ずっと、私を求めてくれた。
ずっと、私を待ってくれていた。
ずっと、私を追いかけてくれていた。
だから、今度は……。
だけど、私は――。
『意気地なしのあきらには、無理よ』
静寂を破る、千尋の声。
『意気地なしで、素直じゃなくて、頑固だもの。龍也がここまで言ってるのに即答できないのがいい証拠よ。龍也、こんな女さっさと見切り付けて、釧路でもっといい女を見つけなよ。あきらとは違って、全力で龍也を求めてくれる素直な――』
「――千尋だけには言われたくないわ!」
そうよ!
そもそも、どうしてこんなことになったかって言えば、千尋のせいじゃない!!
プロポーズされて嬉しいとか、龍也が転勤してしまうとか、目まぐるしい展開に、段々と怒りが湧いてくる。
結局のところ、千尋がいなくなりさえしなければ、こんなみんなの前でプロポーズされて、返事を即断しろなんて迫られずに済んだかもしれない。
――って言うか!
こんなん、脅迫じゃない!!
『はぁ? 事実じゃない! どーせあきらには、龍也について行く覚悟なんて――』
「――ついて行くわよ!!」
どれだけ興奮し、力が入っていたのか、はぁと息を吐くと、目頭が熱くなった。
「他の女になんか……渡さないわよ」
涙が頬を伝う。
自分でも、どうして泣いているのかわからない。
手の甲でグイッと涙を拭うと、大きく深呼吸をした。
「さなえ、ペン、貸して」
「え? あ、うん」
ペンを差し出したのは、陸さんだった。黒光りした、高級そうなペンの蓋を取り、私に差し出す。
私はそれを受け取った。やたら重く感じたのは、ペンが高級だからか、それとも、ペン先が向かう用紙の意味か。
三十年の人生で、恐らく何千回も書いたであろう自分の名前を書くのに、こんなに緊張したことはない。使い慣れないペンのせいもあって、滲むし歪むしで、最高に汚い。
なのに、書き終えて顔を上げると、龍也が涙目で笑っていた。
いくら気心の知れた仲間とはいえ、みんなの前で泣いて抱き合うのは避けたくて、私はスマホを睨みつけた。
「婚姻届、書いたわよ! 千尋、さっさと帰って来なさい!! あんたにだけは、意気地なし呼ばわりされたくない!!!」
力の限り、怒鳴ってやった。
やけくそ気味に婚姻届を書く羽目になるなんて、最悪だ。
けれど、龍也は私の頭を自分の胸に抱き寄せると、嬉々として婚姻届を畳んでしまった。
恥ずかしすぎて、みんなの顔が見れない。
「とりあえず、千尋。今どこにいるか言え」
陸さんが低い声で静かに言った。
『……帯広の実家』
聞くなり、龍也が立ち上がった。
私の腕を引き上げる。
「あきら、行こう」
「へっ!?」
強引に立ち上がらせられると、がっちりと手を握られた。
「俺ら、実家に行ってサインもらって来るから」
「実家、って――」
「あと、よろしく!」
「ちょ、龍也!」
「千尋! 帯広土産よろしくな」
『はいはい。おめでとう、龍也』
かなり不機嫌な千尋の声を聞きながら、私は龍也に引きずられるようにその場を後にした。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!