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発売当日の朝、本社一階はいつもより早く人の気配で満ちていた。
白い棚には「姫と夜桜」柄のスナップボタン付きマルチポーチが並び、その隣に防犯ブザー「夜道まもる」が吊られている。手前には、親子向け小冊子「まちのあんしん図鑑」。晴哉が冊子の束を手前へ寄せると、少し離れたところから麗が言った。
「そこです。親御さんが一番取りやすいので」
「了解です」
以前のように、指示する側と動く側ではなかった。麗が気づいたことを晴哉が直し、晴哉が思いついたことを麗が流れへ落とし込む。優元は最後の音量確認を終え、夢鈴は夜桜の背景パネルの角度を調整し、妃雛は告知文の位置を決めている。
〈はじめての帰り道に、持たせたい〉
白地に載ったその一文を見て、晴哉の口元に笑みが浮かんだ。妃雛がここまで書き直したのだと思うと、おかしかったし、うれしくもあった。
九時半を回ると、取引先の担当者と社内モニターに協力してくれた親子が入ってきた。準備の緊張が、手渡す場の緊張へ変わる。
最初に図鑑を開いたのは、小さな男の子だった。母親が隣でしゃがみ込み、絵を指差しながら読む。
「知らない人に声を掛けられたら、どうする?」
「お店の人のとこ行く」
説明書ではなく、会話のきっかけとして使われている。その様子を見た麗が、やっと息をついた。
次に別の女の子がポーチを開き、スナップボタンを親指で押した。ぱちん、と軽い音が鳴る。
「できた」
女の子は得意そうにもう一度開け、もう一度留めた。前の試作品では難しかった動きが、今は自然にできている。
「……閉まりましたね」
麗が言った。
「ちゃんと、自分で」
「俺たち、間に合いましたね」
その時、入口のほうから晴哉の父と祖母、そして麗の弟の海斗が入ってきた。知雅が段取りしていた見学時間に合わせて来てくれたのだ。
海斗は防犯ブザーの前で目を輝かせた。
「前のより持ちやすい」
「でしょう」
弟に向ける麗の声だけが、低くやわらかい。
祖母は図鑑をめくりながら、にこにこしていた。
「お店の絵があると、子どもでも分かりやすいねえ」
大人の理屈で組み上げた棚が、家族の声を通ることでやっと本物になる。その光景を見ながら、晴哉は胸の奥が静かに熱くなるのを感じた。
昼前、本社一階の奥に設けられた地域連携ミニコーナーにも人が集まり始めた。近隣商店の紹介パネルの一角に、晴哉の実家の漬物店の写真と名前が載っている。通学用品売場に食品を並べるのではなく、子どもの新生活を街ぐるみで見守るための紹介だった。
父は写真の前で照れくさそうに言った。
「うちなんか混ざってていいのか」
「いいんだよ。駆け込める店って、そういうことだから」
父は少し黙ってから、写真を見上げた。
「母さんが見たら喜んだろうな」
その一言で、晴哉は母の設計メモから伸びてきた線が、ここまでちゃんと届いたのだと知った。
午後の社内お披露目会では、「終わらないLOVE SONG」が小さく流れた。悠太朗は吹き出し、夢鈴は満足げに胸を張り、妃雛は「やっぱり使うんですね」と肩をすくめる。沙央梨は拍手をしながら、「よく立て直しました」と短く言った。優元も「現場としても通せる出来です」と続けた。最高の褒め言葉だった。
片づけが終わったころには、外の桜は盛りを少し過ぎ、夕方の風に花びらを落としていた。
玄関前で悠太朗がわざとらしく咳払いする。
「じゃあ俺たちは、このへんで空気を読む」
夢鈴は麗の耳元で何かささやき、妃雛は「恋のおまじない、効いたじゃないですか」と言って、沙央梨に一睨みされながら去っていった。
門の外に残ったのは、晴哉と麗だけだった。
二人は並んで駅までの道を歩く。発売前に何度も行き来した道なのに、今日は急ぐための道ではなく、ちゃんと歩くための道に見えた。
「今日、あの子が自分でボタンを留めた時、少し泣きそうになりました」
麗が言う。
「少しだけですか」
「かなり、かもしれません」
晴哉が笑うと、麗も息だけで笑った。
「時間を守ることばかり考えていた頃は、たぶん見えていなかったです。ああいう顔」
「でも、そこまで行けたのは、麗さんが止めてくれたからですよ」
「止めただけでは足りませんでした。晴哉さんが、その先をつないでくれました」
風が吹いて、花びらが一枚、麗の肩へ落ちた。晴哉が手を伸ばしかけると、麗が自分でつまみ上げて指先に乗せる。
「昨日の返事、まだでした」
晴哉の胸が静かに鳴った。
「嫌ってないです」
麗は前を向いたまま言った。
「むしろ、ずっと苦しかったです。避けられてると思っていた時も、ちゃんと見られるようになってからも」
晴哉は息をつめたまま、その横顔を見る。
「でも、苦しいままで終わるのは違うんですよね」
麗は足を止め、まっすぐ晴哉を見た。
「私も、合わせたいです」
「……歩幅を?」
「はい。あなたの歩幅に、私の歩幅もちゃんと並べたいです」
晴哉は思わず笑った。
「それ、すごく麗さんらしい言い方ですね」
「回りくどいですか」
「いいえ。うれしいです」
笑い合ったあと、沈黙はもう痛くなかった。
「これからは、ちゃんと伝えます」
晴哉は言った。
「大丈夫じゃない時も、ちゃんと」
「そうしてください」
「麗さんも」
「努力します」
即答じゃないところが、いかにも彼女らしくて、晴哉はまた笑った。
「あの日、夜道で言ってくれたこと、覚えてます」
麗が言う。
「歩幅を合わせれば転ばない、ってやつですか」
「はい。たぶん、仕事も同じですね」
二人はまた歩き出した。速すぎず、遅すぎず、どちらかが無理をして合わせている感じもない。足音が自然にそろっていく。
常盤リビングの売場には、明日もまた親子が来るだろう。図鑑を開く手があり、ボタンを留める小さな指があり、帰り道を思う声が重なる。その先へ、今日つながった言葉も届いていく。
春の夜道を、二人は並んで歩いた。
急がず、遅すぎず、同じ歩幅で。