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🌖禁伽井(きんがい)
「……なんで鐘が鳴ってるの?昼じゃないのに」
ゴォォォォォン……
低く重い音が、空気を震わせる。
だが、ここは深夜0時近い山間の廃寺で、鐘楼には誰もいない。
それなのに、“昼の鐘”が正確に6回鳴り響いた。
駅名は禁伽井(きんがい)。
ホームは苔むしており、立て札には“旧・井屋峠停留所”という古い名も残されている。
出口のすぐ先に、急勾配の石段と鳥居がある。
空は星ひとつなく、まるで山そのものが音を吸い込んでいるような沈黙だった。
その山道を登るのは、
塚越 沙英(つかごし・さえ)、35歳。
ベリーショートの髪に、黒のワークパンツと薄手のパーカー。
灰色の登山リュックを背負い、足元は土で汚れたブーツ。
左の手首に巻かれた黒い数珠が目を引く。
沙英は、かつて“行者の家系”に生まれた。
だが10代の頃に逃げ出し、普通の会社員として生きてきた。
それでも、こういった場所に来ると、**なにか“体が覚えている感覚”**が蘇る。
階段を登りきると、そこには崩れかけた山門と、
その奥に静かに佇む禁伽井寺の本堂があった。
扉は開いており、誰もいない。
ただ、堂内の奥に置かれた梵鐘だけが、誰かに叩かれたように揺れていた。
「……あれは、勝手に鳴るもんじゃない」
沙英が一歩踏み入れたとき、
境内の空気が微かに冷たくなり、背中にざわりと“気配”が這った。
本堂の中には、壁一面にお札のような和紙が貼られていた。
どれも筆文字で、なにかが書かれている。
が、すべてが薄く塗りつぶされて読めない。
唯一、中央に貼られた一枚だけが残っていた。
それには、こう記されていた。
「ここを出たければ、“忘れたふりをしてください”。」 「思い出してしまったことは、見なかったことにしてください。」
「……なにそれ」
沙英は半笑いを浮かべつつも、
喉の奥がひりつくような違和感を覚えていた。
背後の鐘が、再び鳴る。
ゴォォォォォン……
その音と同時に、床下から**“足音”が聞こえてきた。**
コツ、コツ、コツ。
まるで誰かが“逆さに立って歩いている”かのような音。
柱の影から、顔の見えない何かが、こちらをじっと見ていた。
「……ちがう、こんなもんじゃなかった。
うちの寺も、こういう……」
その瞬間、頭の中に思い出してはいけない映像が走る。
幼い自分が、夜中の鐘を何度も叩かされていたこと。
それを止められなかったこと。
泣きながら逃げたこと。
「……ダメだ、忘れたふり……しなきゃ……」
彼女は目をぎゅっと閉じ、
「知らない」「知らない」「知らない」と、口に出した。
不思議と、それを3回繰り返すたびに、
鐘の音が遠ざかっていった。
気づくと、彼女は南新宿駅の階段に座っていた。
リュックは軽くなり、数珠だけが手のひらに残っていた。
そこに、ひとつの札が巻きついていた。
「思い出さないこと。 それが、供養になる場合もある。」
沙英は、無言でそれをポケットにしまい、
静かに立ち上がった。