テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
職場から家までは歩いて20分程だ。
今年は9月まで真夏日が続いていたが、
10月に入りようやく秋の気配が漂い始めた。
雪子は夕暮れ時の鎌倉の街が好きだった。
観光客が姿を消し、歩いている人はほとんどが地元の人だ。
昔からこの地に住んでいる老人やお洒落な鎌倉マダム達が、地元の商店街へ買い出しに出る。
住宅街の路地からは、美味しそうな匂いが漂ってくる。
その匂いを嗅いでいると、幼い頃母が作ってくれた夕飯の匂いを思い出す。
雪子の母は、雪子が25歳の時に亡くなった。
雪子は24歳で結婚し25歳で和真を出産したので、ちょうど雪子の出産直後に亡くなってしまった。
だから雪子が実質母親と過ごした期間は24年だ。
母は発見されにくい場所に癌があり、倒れてから二週間で帰らぬ人となってしまった。
当時出産直後だった雪子は母に付き添う事もままならず、
傍についていてあげられなかった事を今でも悔やんでいた。
母はとても優しい人で、同居していた祖母とも仲が良かった。
祖母は母を実の娘のように可愛がり、二人は仲の良い嫁姑関係を築いていた。
しかし優しかった祖母も、母が亡くなる数年前に帰らぬ人となった。
雪子は小さい頃、祖母に絵本を読んでもらうのが大好きだった。
一番好きだった絵本は、お姫様ストーリーの王道である『シンデレラ』だ。
雪子は祖母に何度も何度も『シンデレラを』読んでとせがんだ。
「雪子はこのお話が本当に好きなんだねぇ」
そう言って微笑む祖母の優しい顔が、今でも目に焼き付いている。
あの頃は幸せだった。
家に帰ると毎晩美味しそうな夕飯の匂いが玄関まで漂っていた。
キッチンの窓には明かりが灯り、家に入れば誰かの笑い声が聞こえた。
雪子はそこでハッとした。
昔の事ばかり思い出してしんみりしている自分に気づいた。
(こんな事じゃ駄目よ! もっとしゃんとしないと!)
雪子は両手で頬をペチッと叩いて自分に喝を入れた。
更年期のホルモンバランスは侮れない。
油断するとすぐに人をマイナス思考へ陥れる。特に黄昏時などには要注意だ。
ネガティブ思考に捉われていると、もうその先は底なし沼だ。
若い時はそれでもパッと立ち直れたが、50代になるとそう簡単には元の位置には戻れない。
実はスーパーの同僚が先月退職した。
彼女の年齢は雪子よりも少し上で、退職の理由は更年期をこじらせて鬱病を発症したとの事だった。
以前から眠れなくて睡眠導入剤を飲んでいるという話は聞いていたが、
それだけでなく鬱の治療もしていたようだ。
雪子は、自分がそんな状態に陥らないようにと常に警戒している。
その理由は、東京で一人頑張っている息子の為だ。
親が病気になって子供の足を引っ張るなんて事があってはならない。
息子を安心させる為にも、母親が生き生きとしていないと。
ただでさえ、和真には母子家庭で苦労をさせてきた。
だからこれ以上息子に苦労はかけたくなかった。
家の前に着くと門を開けて玄関までのアプローチを進んで行く。
その小道の脇には、ラベンダーやローズマリーなどのハーブが植えられている。
優しいハーブの香りに癒された雪子は、玄関の鍵を開けて中へ入った。
「ただいま…….」
シーンとした静けさをかき消すかのように、雪子はもう一度言う。
「おかえり」
靴を脱いだ雪子は、キッチンへ向かう。
息子の和真がいなくなってから、夕食を作る気力も失せている。
正社員で働いていた頃よりも自由に使える時間は増えたのに、
なぜか無気力で何もしたくない。
幼馴染の優子によると、この無気力も更年期のせいらしい。
とにかく何もかもが面倒臭くてやる気が出ない。
雪子は買い物した物をキッチンへ置くと、
二階のベランダに干してある洗濯物を取り込みに行く。
(やっぱり一人だとこの家は広すぎるかも)
階段を降りながらふとそう思う。
その後シャワーを終えた雪子は夕食の準備をした。
食事の準備と言っても、今夜はスーパーで買った折詰寿司だ。
今日は給料日だったので、少し奮発した。
雪子は冷蔵庫からノンアルコールビールを一本持って来ると、
早速折詰寿司を食べ始めた。
特に面白くもないバラエティ番組を見ながら黙々と食事をする。
(いつまでもこのままじゃ駄目よ、雪子。そろそろ動き始めないと)
デパートを退職してからもう半年だ。そろそろちゃんとしないと…。
寿司を食べながら、雪子は家の中を見回した。
両親の遺品で溢れたこの家を、そろそろスッキリ片付けよう。
前に進むにはまずそれからだ。
遺品整理をするのが辛くて、ずっと避けてきた。
忙しさを理由に、見て見ぬふりをしてきた。
しかしいい加減そろそろ始めなければ。
(明日から頑張ってみようかな……)
そう思えただけでも進歩だ。
(うん、明日から始めよう!)
雪子はそう決心すると、残りの寿司を食べ始めた。
コメント
2件
夕暮れ時の住宅街に漂う夕食の匂い🤤 焼魚やカレーやゴマ油の香りの中を歩いて帰るの好きだったな~✨
重い腰はなかなか上がらないけど、自身の先々のことや息子のことも考えて遺品整理をスタート▶️素晴らしいです😊👏👍