その時人の気配がした。ドアの閉まる音が聞こえる。
俊の読み通り、その家から住人が出て来たようだ。
(グッドタイミングだな…)
そこから俊は歩みをわざと遅くして、門から人が出て来るタイミングに合わせようとした。
そして住人が門を開けて外に出て来た。
俊に背を向けて門の扉を閉めている。
(女性だ!)
その女性は、デニムのロングスカートにストライプのカットソーを着て、
その上にふわっとニットのロングカーディガンを羽織っていた。
その女性が振り向いた瞬間、顔が見えた。
(やっぱり彼女だ!)
俊の予想通り、その家の住人はスーパー店員の『浅井雪子』だった。
俊は満足気な表情を浮かべながらそのまま前へ歩みを進める。
門の扉を閉めた雪子は、振り返って足を一歩踏み出した。
その瞬間前から歩いて来た俊に気づきびっくりした顔をする。
「アッ!」
「昨日はどうも」
俊が雪子にそう声をかけると、雪子はまだ驚いている様子だったが、
急にハッとして言った。
「あっ、昨日はありがとうございました」
雪子は丁寧にお辞儀をする。
「こちらにお住まいだったんですね」
「はい。あっ、お客様もこの辺りですか?」
「はい。まだ仮住まいで本格的に引っ越してくるのはもう少し先なのですが、家は坂を少し上がって左に入った所です」
俊はそう言いながら、今来た道の方を指差す。
「そうでしたか…それにしても凄い偶然ですね」
「ですね。偶然と言えばもう一つ、昨日こちらの本を二冊いただいて帰りました。一言メッセージを残しておいたのです
が……」
俊はそう言って段ボールの方を見た。
「あっ、もしかして一ノ瀬さんですか?」
「そうです。ずっと欲しかった本があったのでいただきました。ありがとうございました」
「あ、いえ、欲しい方に貰っていただけたら父も喜びますので……」
雪子はそう言って笑った。
「そう言っていただけると有難いです。何年も探していた本だったので感激しました」
「それは良かったです」
雪子は微笑みながら言うと、急にハッとして腕時計を見た。
「すみません、もう仕事に行かなくちゃ」
「あ、すみません、出勤前にお引き止めして」
「いえ、とんでもないです。では失礼します」
雪子はニッコリと微笑むと、俊に軽く会釈をしてからその場を後にした。
(びっくりしたー! いきなりあの豊村悦司がいるんですもの。まさかあの人が父の本を持って行った『一ノ瀬さん』だったな
んて…さらにびっくりよ)
雪子はそう言いながらフフッと笑った。
(それにしても見れば見るほど豊村悦司にそっくり。きっとモテるんだろうなぁ。あんな素敵な人は、私の日常には無縁の人
ね)
雪子は心の中で呟くと、フフッと笑って職場へ向かった。
一方俊も、
(参ったな…まさかあの本の持ち主が和久井奈見似のあの店員だったとは…こんな偶然ってあるんだな)
そう思いフッと笑みを浮かべる。
(それにしても父親が亡くなって5年後にやっと遺品整理か。彼女はあの家に一人なのか? それとも夫や子供がいる? 仕事
がスーパーのパートなら普通は夫がいるだろうな。いやまてよ? 夫は単身赴任とか?)
俊の頭の中では勝手に想像が膨らむ。
そこでハッとした。
(なんで俺はこんなに彼女の事が気になるんだ? 彼女が結婚していようが独身だろうが俺には一切関係ない事だろう?)
俊は思わず苦笑いを浮かべる。
雪子の事が気になるのは、きっと彼女が自分の周りにはいないタイプの女性だからだ。
そう自分に言い聞かせて納得する。
『浅井雪子』に会うとなぜかホッとする自分がいた。
明らかに彼女の方が年下なのに、彼女に会うと安心感のようなものに包まれる。
彼女の何が原因でそう感じるのかは不明だが、懐かしいような癒されるようなそんな気がするから不思議だ。
こんな事はもちろん初めてだった。
きっと鎌倉のこの地が、そして海風がそんな風に思わせているのかもしれない。
俊はその不思議な感覚に包まれたまま、駅への道を歩き続けた。
その後、雪子はいつものように出勤し早番のシフトについた。
店内に音楽が流れ出すといよいよオープンだ。
今日も表には、開店前から数名の客が並んで待っている。
そして時間になると、客が中へ入って来た。
「いらっしゃいませ、おはようございます」
声掛け当番だった雪子は、出入口に立って客に挨拶をした。
そこへ、昨日財布を忘れた老婦人が姿を見せる。
雪子を見つけると、すぐに傍へやって来た。
「昨日は本当にありがとうございました。立て替えていただいたお代金、持ってきましたので」
老婦人はそう言うと、封筒に入ったお金を雪子へと差し出した。
それを受け取りながら雪子は笑顔で言う。
「わざわざありがとうございます。今日でなくても、次に来られる時で良かったのに…」
「いえいえ、私ももう歳でしょう? こういうことはすぐにやらないとうっかり忘れちゃうから」
老婦人はそう言って笑った。
「お客様はいつもお元気そうですから、そんな心配はなさらなくても」
雪子が笑顔で言う。
「それ、その笑顔よ。あなたの笑顔を見に来るのも楽しみなの。いつも気持ちの良い応対をしてくださるから。それが嬉しくて
ついつい来ちゃうのよね」
老婦人はそう言うと、雪子の腕をポンポンと優しく撫でた。
その言葉を聞いた雪子は、なぜかぐっと涙がこみ上げてくる。
人に褒められたのなんて久しぶりだった。
それも母親と同世代の女性に褒められたので、
つい母に褒められたような気がして懐かしくて涙が溢れてくる。
デパートに勤めていた時は、感謝されたりお礼を言われる場面も多かった。
それを励みにまた仕事を頑張る事が出来た。
しかし最近、人から感謝されたり褒められたりする事はほとんどなかった。
更年期で弱った心は、こんな些細な人の優しさにも泣けてくるのだろうか?
雪子は溢れそうな涙をぐっとこらえると、その涙を笑顔に変えて老婦人に言った。
「ありがとうございます。とっても嬉しいです」
「いえ、本当の事ですから。あ、お名前は浅井さんと仰るのね。私は田村と申します。手間のかかるおばあちゃんだけれど、こ
れからもよろしくね」
田村はそう言って優しく微笑んだ。
「こちらこそ、今後ともよろしくお願いいたします」
雪子も微笑んで言った。
「折角来たから、果物でも見て来るわ。じゃあお仕事頑張って下さいね」
婦人はニッコリ笑ってカゴを手にすると、果物コーナーへ向かった。
雪子は田村に向かって、
「どうぞごゆっくり」
と声を掛けてから、受け持ちのレジへ戻って行った。
コメント
4件
俊さんの心に雪子さんの笑顔が住みつきましたね💗
良い感じの仲に成りつつ?ハッピーエンドになりますか?楽しみにしてます。
豊悦と和久井…💞らびぽろさんのコメ通りお互い意識してますね〜✨それに雪子さんの人となりが俊さんを惹きつけてます猫😊👍🌷