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まだ陽は落ちきっていない。けれど生徒たちはすでに帰り、階段の音も消えた。
残っているのは、三人だけだった。
蓮司は、黒板の前に立っていた日下部の後ろに、音もなく近づいていた。
そして、ふいに背後から手を回し、日下部のシャツの裾を掴んだ。
「なあ……これ、どこまで脱がせたら怒る?」
その声は軽く、冗談のように響いた。
けれど、教室の誰も笑わなかった。
遥の指が、机の縁を握る音だけが小さく響いた。
日下部は振り返らない。
「……やめろ」
低い声だった。怒っている。けれど、突き飛ばすわけでもなく、ただ背中を硬くするだけだった。
蓮司は構わず、シャツの隙間から指先を滑らせた。
腰骨の少し上、ぞわりと肌の感覚だけが残る場所。
「やっぱり、ちゃんと反応するんだなあ。おまえって」
「──最低だな、蓮司」
その瞬間、遥の声が割って入った。
空気が変わった。
蓮司が顔を向ける。目が笑っていた。
「あれ、遥。いたんだ。……ていうか、いたなら止めればよかったのに」
遥は立ち上がっていた。
力の入らない足で、それでも前に出た。
「もうやめろ」
「なんで?」
蓮司は日下部の肩から指を外さずに、遥をまっすぐ見た。
「怒ってんの? ねえ、遥。……怒れるんだ?」
言葉は挑発ではなかった。
ただ、純粋な驚きと好奇心だった。
だからこそ、最も残酷だった。
遥の喉が詰まった。
「おまえ、怒った顔もするんだ。へえ。──それ、もっと早く見せてくれてたらなあ」
遥の拳が震えた。
「……ふざけんな」
その言葉が、自分の口から出た瞬間。
遥の中の何かが、音もなく壊れた。
「ふざけてんのおまえの方だろ。……人の感情で、面白がって。弄んで。何が“顔見せて”だ。ふざけんなよ……!」
声が震えていた。
怒鳴ってなどいない。でも、確かに怒っていた。
蓮司の手が、ようやく離れた。
「へえ。面白い」
ぽつりと蓮司は言う。
「ねえ、遥。その顔……もっと見せてよ」
「そうやって怒って、でも本当は──誰も傷つけられないくせに」
「俺みたいなやつでも、殴れないんでしょ?」
遥は言葉を飲んだ。
殴らなかった。
殴れなかった。
そして、蓮司は楽しそうに笑った。
「ね。やっぱ、そういうとこ、好きだわ」
そう言い残して、また教室を出ていく。
残された遥は、足元が崩れそうになりながら、それでも立っていた。
日下部は振り返らなかった。
けれど──その背中が、震えていた。