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朝四時の厨房は、海の底みたいに青かった。まだ客の気配もない時間なのに、ディアビレの手だけが休みなく動く。発酵を終えた生地を並べ、洗濯場のタイマーを確かめ、モップを壁に立てかけたまま、次は配膳室の銀器を磨く。窓の外では、岬の下から波の音だけが規則正しく上がってきた。
老舗ホテル・ステラマーレは、朝の顔だけはきれいだ。けれど、そのきれいさの下に誰の寝不足が積もっているかを気にする者は、ほとんどいない。
「そこ、終わったら宴会場の花も見ておいて」
振り向くと、伯母のセルマが帳場から指だけ動かした。ねぎらいはない。確認でもない。今日は何をいくつ押しつけるのか、その数を数えるような目だった。
「昼までにですか」
「昼までに。あとベジラのドレスの裾、汚さないように気をつけて。あなたの手、粉だらけだから」
ディアビレは「はい」とだけ返した。返さなければ、隣の小さな喫茶室ルナ・マグにまで話が飛ぶ。亡き母の名が残るあの場所を守るには、飲み込み続けるしかない日がある。
その時、ふっと鼻先をかすめる深い香りがした。苦いのにやわらかくて、眠気の芯へまっすぐ届く匂いだ。
見知らぬ男が、作業台の端に白いマグを置いた。夜勤用の紺の上着に、まだ海風の冷たさをまとっている。
「倒れると面倒だから」
ぶっきらぼうな声だった。けれど湯気の立つ面だけは、やけにやさしかった。
ディアビレはまばたきを忘れたまま、その男とコーヒーを見比べた。
#海辺の町