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五日前になると、王宮では舞踏会の話ばかりが飛び交うようになった。誰が誰と踊る、どの家がどの席に座る、誰のドレスに何色の刺繍が入る。そこへ、特別推薦名簿に平民の文書係アーダの名があると知れ渡ったのだから、視線が集まらないはずがない。
「だからこそ、僕が前へ出ます」
中庭の練習場で、アリツは妙に晴れやかな顔でそう宣言した。
「仮の相手役です。彼女を余計な憶測から守るには、視線の行き先を先に決めておくのが一番早い」
「お断りします」
アーダが即答すると、彼は肩をすくめる。
「断る顔まで真面目だなあ。安心してください。僕は見せ方を心得ている」
その言葉どおり、彼は見せ方だけなら完璧だった。ダンスの型も姿勢も軽やかで、アーダの手を取る角度まで計算されている。練習場の端で見ていた侍女たちは、早くも頬を赤らめて囁き合い始めた。
ヴォロジャは少し離れた柱のそばで腕を組み、いつもどおり平静を装っていた。だがアーダの手首には、銀鎖がかすかに震える感触が伝わってくる。彼が何も感じていないわけではない。そうわかるのに、彼自身は何も言わない。
「一、二、三」
アリツが軽い声で数える。
「ほら、顔を上げて。相手を見る」
「見ています」
「それは書類を検分する顔です」
「あなたは全部に口を出しすぎです」
「その返事、ちょっと可愛いですね」
アーダが足を踏み外しかけたところで、隣からヴォロジャの声が飛んだ。
「無理をするな」
「してません」
「している顔だ」
その一言が、妙に胸に残った。ヴォロジャは変わらず穏やかな声なのに、アリツへ向ける視線だけがいつもより低い。アーダはその変化を、鎖の震えよりはっきり感じ取ってしまう。
練習が終わって人が引けた後、石畳には夕暮れの影が長く伸びていた。アーダはようやく息をつき、扇で顔をあおぐ。ヴォロジャが水差しを持ってきた。
「飲め」
「ありがとうございます」
差し出された杯を受け取る時、二人の指先が触れた。昼間は平気なふりをしていたくせに、今さらそれだけで胸が忙しくなる。
しばらく黙って水を飲んでから、アーダはぽつりと漏らした。
「誰にでも優しいのは、時々ずるいです」
「……え」
「困っている人を見れば助ける。怒っている人がいればなだめる。私にも同じように優しい」
「それは、悪いことか」
「悪くはありません。でも」
でも、その先がうまく言えない。自分だけが特別ではないと知るのが怖いのだ、と言葉にしてしまえば、もう後戻りできなくなる気がした。
ヴォロジャは答えを探すように沈黙した。その顔を見て、アーダは余計に苦しくなる。誰か一人を選ぶことから逃げてきた人の顔だと、わかってしまったからだ。
その夜、舞踏会の正式招待客名簿が誓約局へ回ってきた。アーダが確認していた手が止まる。
「……ない」
ヴォロジャの名だけが、招待客欄から消えていた。備考には、調停役は当日場内警備へ回すため除外、とある。だが添えられた指示書の印は、保守派重臣のものだった。
「引き離す気ですね」
アーダが低く言うと、ヴォロジャは笑おうとして失敗した。
「俺が外れても、お前は舞踏会へ出る」
「嫌です」
「嫌でもだ」
「嫌です」
自分でも驚くほど強い声が出た。ヴォロジャは目を見開き、それから困ったように視線を伏せる。
鎖がちいさく鳴った。二人とも、言うべきことをまだ言っていない。そのことだけが、夜気の中ではっきりしていた。