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扉を押すと、淡い光が差し込む小さな部屋。椅子と机だけの空間で、壁には目立たない時計がひとつ。
「……座って」
遥は声をひそめ、机の向こう側から静かにそう言った。肩の力は抜けているけれど、目にはまだ、家と学校で刻まれた疲労の影が残る。
訪れたのは、小柄な少年だった。手には折れ曲がったノートを抱え、視線は床をさまよっている。
「……あの、相談したくて」
声がかすれる。少年の小さな肩が、部屋の空気に溶けるように震えていた。
遥はうなずき、机の上に置かれたノートに指を置く。
「書きたいことがあるなら、書いていい。出せるだけ、出してみろ」
少年は一呼吸置き、震える手でノートを広げた。
「家に帰るのが怖いです……学校も、なんか居場所がなくて。友達もいなくて、笑えなくて……」
言葉に詰まるたび、紙の端をぎゅっと握る。
「……わかる」
遥は小さく息をつき、椅子に深く腰かける。
「俺もそうだった。家も学校も地獄みたいで、笑うのも下手で、必要とされてる実感なんてほとんどなかった」
少年はちらりと顔を上げる。目に、まだ涙の気配。
「でもな、ここに来たってことは、少しでも言いたかったんだろ」
遥は指を机に置き、静かに続ける。
「言えないことは山ほどある。でも、吐き出せる場所があるなら、少しは楽になる」
ノートに書かれた文字を読みながら、少年は小さくうなずく。
「俺もな、助けたいけど助けられなかったことがある。でも、それでも息してる。呼吸してる。それだけで、まだ終わってないんだ」
少年は息を吐き、少し肩の力を抜いたように見えた。
「……終わらない日々でも、生きてるだけでいいんですか?」
「そうだ」
遥は少し微笑む。
「それでいい。生きてるだけで、意味はある。無理に笑わなくても、無理に強くなくても、息してる。それがまず、すごいことなんだ」
部屋には、静かな空気と、二人の呼吸だけが残る。
外の光は柔らかく、でも地獄のような日常は変わらずに続いている。
それでも、この小さな部屋の中でだけは、誰かが見てくれている、というわずかな安心があった。
「じゃあ……ここで、少しずつ、吐き出してみようか」
遥はゆっくりとペンを取り、机に向かう。少年も、ノートに向き直す。
言葉にならなかった痛みが、少しずつ紙の上に形を作り始めた。
地獄の日常は消えない。けれど、ここには確かに、誰かと共有できる時間があった。