テラーノベル
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とにかく忙しかった。
あまりの忙しさに頭がおかしくなるかと思えるほどだった。
童ノ宮のような山間の小さな地方都市、遠慮なく言えば片田舎であろうと年末商戦ともなると、各商業施設を出入りする人の数が普段とは段違いに増える。仕事とはいえ、それを捌かなければいけない立場としてはこの人達は普段どこに身を潜めているんだ、と頭を抱えたくなる。
それは、ここ、「スーパーつかもり」も例外じゃない。童ノ宮の狭い通りに立つこの店は、祭礼のたびに近隣住民である氏子やシーズンごとの観光客が一気に押し寄せて来る、一族経営の直営店。
そして、俺はその雇われ店長というわけだ。
この日も各売り場を回って商品に不備がないかチェックをしたり、新しいアルバイトの大学生に仕事の流れを指導したり、レジ打ちのフォローをしたりと店内を駆けまわっていた。事の発端は夕方の六時前後――。お菓子売り場からラムネ菓子をくすねようとしていた高校生を軽く締めあげている時だった。
「リョウさん! ……い、いえ、鳥羽店長!」
わざわざ俺の名を呼び直して、バックヤードに飛び込んできたのは半年ぐらい前からここで働いている女性従業員。確か二十代半ばだったはずだが、小柄で童顔なせいか、高校生ぐらいにも見える。
彼女の名前は栗原ミサキ。いや、今は塚森ミサキか。とある事件に巻き込まれ、その顛末でこのスーパーのオーナーである塚森家の名跡となった女性だ。今は幼い息子とともに塚森本家に身を寄せている。
一連のゴタゴタを巡り、当初、俺は彼女にあまり良い感情を抱いていなかった。しかし、ほぼ毎日顔を合わせるようになり、どんな物事にも真摯に向き合おうとする彼女は素直にリスペクトできる大切な仕事仲間だ。
「あ、あのあの、い、今、鮮魚と精肉売り場にいらしたお客様が倒れられて、その……」
俺はミサキを見た。彼女の顔は真っ青だった。呼吸は乱れ、額には冷や汗が滲んでいる。華奢な肩は小刻みに震えていて、怯え、気が動転しているのは明らかだ。
「お客様が? ……医務室にはご案内した?」
「そ、それはもちろん。で、でも、その後、他のお客様も次々に同じように……」
「それは……。一応、聞くけどもしかすると――」
「多分。い、いえ、間違いなく怪異だと思います」
怯えた様子を見せながらも、はっきりした声でミサキはうなずく。
やっぱりそうなのか、と俺はため息をつく。怪異。この世ならざるもの。お化け、幽霊、怪物、妖怪。呼び方は何だっていい。とにかく普通じゃない、訳のわからない連中のことだ。
どうして寄りにもよってこの店で、とは思うがここ童ノ宮においてこういうことは決して珍しくない。
それよりも、ミサキの毅然とした振る舞いに俺は驚いていた。よく逃げだしもせず、俺のところに報告に来たな、と。普通の人間なら怪異を感知すること自体がそもそも難しく、たとえできたとしてもそのおぞましさにパニックに陥るのが関の山だというのに。
あるいは彼女ももはや普通の人間とは言えないのかもしれない。我が子を救い守るためとは言え、異形の神を祀り、その力を分け与えられた塚森家の連中の一員となったミサキは今や天狗の末、人外、外法外道の輩だ。
もっとも千年以上、今のこの姿のまま生きている俺だって塚森家のことをどうこう言えた義理じゃないが。
「……分かった、俺も行く」
複雑な心境を押し殺し、俺は椅子から立ち上がる。ミサキの表情に微かな安堵。
信頼してもらえるのはありがたいが、安心するのはまだ早い。何しろ、怪異にはこの世の常識も倫理も何一つ通用しない。まずはどんなやつが相手なのか、慎重に見極めねばならない。
「念のために言っておくが、怪異が現れてもあんたは絶対に手を出すなよ。外法を使うのも絶対禁止。……目の前で何が起きても絶対に、だ」
「は、はい。わかっています」
ミサキと事前に決めたルールを確認しながら、バックヤードを後にしようとする。
「あのぅ、何かあったんですか?」
背後から声がかけられる。媚びるような卑しさと、どこか他者を下に見る傲慢さを含んだ声に俺はイラつく。つい数分前まで激詰めにしていた万引き高校生だった。
「実は今日、見たいテレビがあって……時間がかかるようなら、もう僕は帰っていいですかね?」
「いいわけないだろ。何が見たいテレビがあって、だ。この万引き小僧が」
自分でもギョッとするほど冷たい声が出た。
子供相手に大人げないとは思うが、こっちはこれから生きるか死ぬかの鉄火場だ。そんな時、こんな馬鹿を相手に優しくできるほど俺は聖人君子じゃない。
「そもそもお前、うちの商品盗んだの何回目だ?」
「え、ええっと確か二回か、三回……」
「五回だよ、馬鹿」
「ば、馬鹿って……そんな言い方しなくても……」
「黙れ。黙ってここでジッとしてろ」
万引き小僧の眉間に人差し指を突きつけ、俺は言った。
「絶対にここから外を出歩くんじゃない。それと、トイレも俺が戻るまでは使用禁止だ。もし言いつけを破ったら命の保証はないからな」
頭上に流れるおせち販売のアナウンスを聞きながら、ミサキに先導される形で鮮魚・精肉売り場へと向かう。
売り場にはまるで店中の人間が集まっているかのような人だかりができていた。その向こうには白目を剥き、大きく口を開いて床に身を横たえた男女が数人。
確かにこれは大問題だ。ミサキの顔が真っ青だったのも納得がいく。すみませんちょっと通りますね、と俺は人々をかきわけてゆく。
「あ、ああ、店長。大変なんです。このお客様達が――」「ええ、聞きましたから。大丈夫、ちゃんと対処しますから」
この店で十年近く働いてくれているパートの女性――佐藤さんに小さく手を振り、俺はその場に片膝をつく。
それから意識を失った小学校高学年ぐらいの男の子の頭をそっと持ち上げる。
思わず眉間に皺がよってしまう。男の子の首筋に赤紫色の手形がついていたからだ。枯れ枝のように細く、そして異様に指の長い手の跡がべったりと。
その指先は思わず鳥肌が立つほど鋭く尖っていて。
「……これ。あんたにも見える?」
不安そうに覗き込んできたミサキに俺は小さく、そう問いかける。
一瞬、戸惑いの表情を浮かべたミサキだったが、ジッと男の子を凝視した後、
「見えます。うっすらとですけど。……やっぱり、これが原因ですよね?」「多分な……」
痛ましそうに尋ねるミサキに俺はうなづいていた。よく見れば他の客――大学生ぐらいの青年、白髪交じりの初老の男性、火がついたように泣き叫ぶ赤ん坊を乗せた中年女性たちも、顔や腕、そして足首とそれぞれ違う場所に手形が浮かび上がっている。
「も、もう! 店長もミサキちゃんも! のん気におしゃべりしている場合じゃないでしょう!」
たまりかねた様子で佐藤さんが悲鳴のような声で口を挟んでくる。
「こんなのって絶対、普通じゃないですよ! 早く救急車を呼ばないと!」「いや、それじゃ駄目だ」
店内の雰囲気が一層ざわつき始めている。どこからともなく魚が腐ったような異臭が漂い、突き刺すように強烈な視線を肌が感じている。
百年ぐらい前、当時の俺は猟師を生業としていたが、しばしば、これとよく似た感覚を山中で覚えていた。
こちらの気配を敏感に察知し、警戒を投げかけてくる獣の気配だ。
そして、今、俺の喉元に集中する視線の主は、俺が知るどんな獰猛な獣より凶悪だという確信があった。それは恐らく常人には感知されにくい感覚なのだろう。
「佐藤さん。それにミサキさんも落ちついて聞いてくれ」
立ち上がり、できるだけ低い声で俺は言った。
「二人はお客様とスタッフ――、とにかく、店にいる人間を全員連れて童ノ宮に向かって欲しい」
「えっ? 童ノ宮って通りの向こうにある神社のことですよね? ……どうして、今、神社に?」
佐藤さんが当然の疑問を口にする。
しかし、今、詳細に事情を説明している余裕は時間的にも、精神的にもない。
「倒れたお客様達は、あそこに行けばなんとかなる。頼むから今は素直に指示に従って欲しい」
「は、はぁ……」
「店長は? まさか、一人でここに残るとか言いませんよね?」
どこか鋭いその口調に思わず俺はミサキを見返していた。ミサキも俺を見つめていた。心なしか、俺を非難するような眼差しだった。
「心配しなくても、単独行動なんてとらないさ」
俺は肩をすくめていた。
「……店の戸締りを終えたら、すぐにみんなを追いかける。俺だって敢えて危ない橋を渡りたいわけじゃないからな」
言葉にしがたい居心地の悪さを覚え、俺はミサキから目をそらす。あまり上手くごまかせたとは思えなかった。
――お買いもの中、お騒がせして誠に申し訳ありません。御気分がすぐれないとお客様から複数の訴えがあり、厨房のガスが漏れている可能性がございます。火災に発展する危険性もございますのでお客様は係員の指示に従い、店舗の外に避難をお願いいたします……。
「……やれやれ、だな」
思わずため息がついて出た。ミサキや佐藤さん、従業員に付き添われゾロゾロ、店から離れてゆく人々を見送りながら。
取り敢えずこれで最悪の事態だけは免れることができた。買い物客はもちろん、ミサキたち店員の身に万一のことがあれば、その家族や俺を雇ってくれている塚森家の連中、ひいては氏神であるあいつに顔向けできなくなる。被害が発生するにしても、店内にとどめたい。さらに欲を言えば、商品にも傷がつかないうちに収めたいところだが……。
もう一度ため息をつき、エントランスの内側シャッターを降ろした時だった。一瞬、天井の蛍光灯がジジッと虫がハネを震わせるような音を発したかと思った次の瞬間、周囲が漆黒の闇に塗りつぶされた。
千年生きた俺だが暗闇の中に身を置かれるのは、未だに苦手だ。視界を封じられたらどんな豪胆な人間でも焦るだろうが、俺が闇を嫌う理由はそれだけじゃない。昔から夜や暗いところにはお化けが出ると言うが、実際はその逆だ。
お化けが、怪異が現われるからこそ、そこに暗闇は生じる。そして、性の荒い怪異ほど、もたらす闇は獰猛だ。
ズボンの後ろポケットからスマホを引っぱりだし、たどたどしい手つきで懐中電灯モードに切り替えようとした時だった。ベシャッ、と湿った嫌な音がして背後から左耳をしたたかに打たれる感触。
耳たぶから頬にかけて、しなる鞭の一撃を受けたかのような鋭い激痛が走る。ウウッと呻き声をあげ、反射的に俺は後ろを振り返っていた。
スマホが放つ光の輪の中に一瞬照らし出されたのは、溶けるようにして闇の中に走り去る小柄な人影だった。
「……ッ!」
思わず俺は息を飲む。その後ろ姿に見覚えがあったからだ。
赤と白の横ラインが入ったセーターを着こみ、分厚い黒地にハニカム模様の入ったスカートを履いている。そして、左肩にはまるでボロ布のように痛み切ったトートバッグ。
あぁ、なるほど。あの女か。わざわざ、このクソ忙しい時期を狙い撃ちにするように悪さを働いていたのは。ということは、あの噂は本当だったということか……。
「――クソッ、気持ち悪いモンひっ付けて行きやがって」
思考を中断。顔をしかめながら俺はやつに打たれた箇所に手を当てる。
ヌルリとした、ねばつく糸を引くような感触が指先に絡みつく。引っ叩かれた顔の皮膚が腐食を始めているのだ。遅れて生じたのはヒリヒリとした痛み。
俺は生きたまま焼かれたことも酸を浴びせかけられたこともあるが、これはそのどちらとも違う。霊毒だ。肉体だけではなく魂をも侵す猛毒。もっと平たく呪詛と言ってもいい。
女――、いや、女の姿をした何者かは平手打ちと同時、ありったけを叩き込んで来やがった。多分、買い物客達が倒れたのもこいつのせいだろう。
ヤバいな、思った以上に。早く手を打たないと、取り返しのつかないことになるだろう。最悪、死者がでるかもしれない。
首を斬り落とされても時間が経てば自然とくっつく俺は別としても。腐食が奥歯のつけ根あたりまで染み込む激痛を堪えながら、俺は襲撃者を追って歩き始める。
……何とか話し合いですめばいいんだが。
不幸中の幸いといっていい。
さほど時間をかけず、襲撃者を見つけ出すことができた。もっとも、その頃には俺の顔は腐り果て、グチャグチャになっていたが。やつは――女の姿をした怪異は、店内の最奥に設置された洋服売り場にいた。
特に隠れる様子も逃げる様子もなく、セール用ワゴンに積まれた子供服を物色していた。一枚一枚、手に取ってはフンフン臭いをかいだり、袖を軽く引っ張って感触を確かめている。
そうか。やっぱり、こいつは……。
やつに向かって俺は呼びかけていた。
「そふぇやふぃたりよほしたりしないでくへよ。だいひなしょうひんふぁんだ……」
それ破いたり汚したりしないでくれよ。大事な商品なんだ……。
そう言いたかったが舌の肉が溶け腐っていたせいか、意味不明な音の羅列にしかならなかった。仕方なく、心で語りかけることにする。
(よお、こうして顔を合わすのは六年ぶりだな。……あんたは亡くなったって聞いていたけど、まさか、怪異になっていたとはな)
ぎゅるるるる……。
喉を鳴らすような甲高い異音を立てながら、ボサボサに乱れた長い髪を揺らし怪異がこっちを振りかえる。
そこに顔はなかった。目も鼻も額のほうへと圧し潰され、粘土のような肉に埋もれている。唇の肉は乾いて崩れ落ちていて、口は縦に大きく裂けた歪な穴と化していた。そして、その縁には黄ばんだ乱杭歯がランダムな間隔の隙間を空けて生えそろっていた。
だが、それよりも俺が目を惹かれたのは、怪異の両の耳たぶにさげられたアクセサリーだった。思わず目を剝いてしまうほど大きく派手なシルバーのイヤリング。
俺にその価値はよくわからないが、とにかく高価なものらしい。
確か亡くなった夫から結婚記念日にプレゼントされた、と自慢げに話していたっけ。堰を切ったように、日々の忙しさにほぼ忘れていた記憶が俺の中で蘇ってくる。
(霧島キリエ。……いや元霧島キリエって呼ぶべきか)
彼女はここ童ノ宮の、いわゆる旧家の奥様だった。よその土地、都会から嫁いできた人らしく、田舎のよく言えば厳格な、悪く言えば堅苦しい生活は水に合わなかったらしい。
年々、心を病んでいった彼女は隣町のメンタルクリニックに通うようになり、帰り際に立ち寄ったこの店で悪い意味でのストレス発散を見出した。端的に言えばそれは万引き、窃盗だった。
一度目。総額五百円前後のコスメ商品、数点を盗み出そうとした霧島キリエを俺は説教だけで無罪放免とした。被害が比較的低額だったからだ。
二度目。お菓子売り場でまだ清算前のチップスをむさぼっていた霧島キリエを取り押さえた俺は彼女の家族にこのことを連絡。厳重に抗議の上、霧島キリエの「スーパーつかもり」への出入りを禁止にした。
そして三度目。出入り禁止を言い渡していたにもかかわらず、姿を見せた霧島キリエは今度子はこの洋服売り場からハンカチを五枚、ネクタイを一本、スカートを一着、持参したトートバックに隠し持ち帰ろうとした。
説教も説得も意味がないと俺は判断し、警察に連絡。後に塚森本家から直々に先方から謝罪があったと伝えられたため、俺は被害届けを取り下げた。
それから霧島キリエの身に何があったのか。先程述べたように俺は詳しくは知らない。ただ、似たようなトラブルはほうぼうで抱えていたらしく、「スーパーつかもり」での事件がきっかけで家族との亀裂が決定的になってしまったそうだ。
そして、孤独に陥り――。
(自ら命を断ったってわけか。……不思議なもんだ。俺みたいに何度家族を作ろうとしても他人の手で焼かれちまうやつもいれば、あんたみたいに自分から絆を断ってしまうやつもいるんだから)
心の声に思わず皮肉がこもり、それに反応して怪異が不機嫌な唸り声をあげる。
(それで? どうするつもりだ霧島キリエ。そんな姿になってまで現れたってことは、余ほど俺を恨んでいるらしいな)「うぐるるるッ……」(俺はただ自分の仕事をしたまでだぞ。警察に通報したのは、仏の顔も三度までってやつだ。後で被害届けも取り下げたしな)
そこで言葉を切り、俺は口元――と言っても唇は溶けてなくなっており、血にまみれた歯茎が剥き出しだったが――を歪める。おっといかん、と思い直し反省。
こんなふうにすぐ卑屈になっていじけた心持ちになってしまうのが俺の悪い癖だ。サッサッと本題に入ることにする。
(それであんたに提案したい。もし、この場を引いてくれるのなら俺のことは後でどんな目に遭わせてもいい。気が済むまで痛めつけてくれてかまわない。……だけど、この店はダメだ。人から預かったものだし、そもそも他の客や従業員は無関係だからな)
「おぁあああああああああああああッ……!」
霧島キリエが、元霧島キリエが、怪異が叫ぶ。溜まり溜まった怨念を一気の爆発するかのような大絶叫だった。
手にしていた子供服を乱暴に投げ捨て、肉食動物のように頭を低く身構えると――俺に向かって真っすぐ駆け寄ってくる。
……全く勘弁してくれ。
思わずため息をつき、俺は闇に塗りたくられた天井を見上げる。たとえ相手が怪異であろうと逆恨みであろうと――、自分に対してここまで強い殺意を向けてくる者がいるという事実は気が滅入る。
千年生きたところで、こんなことで思い悩んでいる俺は一体何なんだろうな、と胸にぽっかり穴が開いたような気持になる。
ま、それはそれとして。
血も凍るような叫び声をあげながら身を躍らせる元霧島キリエ。その枯れ枝のような長い指の先に鉤のような爪が鋭く生え伸びる。
振り下ろされる速度から、かわし切れないと判断。左の頭皮から目にかけて縦にザックリ切り裂かれながら両腕に渾身の力を込め、骨と皮だけの小柄な干物のような身体を抱きすくめる。
バキバキと腕の中で骨の砕ける音が聞こえ、元霧島キリエがまた唸り声をあげる。しかし、それは苦痛ではなく怒りの声だ。ガリッと骨を削る嫌な音が聞こえた。肩を噛みつかれたのだ。電流を流されたかのような激痛のあまり一瞬気が遠くなりかけるが、軸足で床を強く踏みしめどうにか意識を持ち堪えさせる。
ミサキや他の従業員、買い物客達を追い出しておいてよかった。
この襲撃は半ば予想していたとはいえ、こんな真っ暗闇の中、彼らのように怪異に対して何ら抵抗力を持たないお荷物がいるのといないとでは天と地ぐらいの差がある。
まさか元霧島キリエが配慮してくれたわけではないだろうが、俺は彼女に半ば本気で感謝していた。
お陰で何の気兼ねもなく、俺も本性を出せる。
本当はもっと優しく扱ってやりたいが、俺は御曹司や塚森みたいな品のある連中とは違う。
俺は肩に喰らいついたままの元霧島キリエの後ろ髪を鷲づかみにする。
それから力を込めて勢いよく引き剥がす。ベリッと厭な音を立てて、衣服の一部と肩の皮膚も同時に。
バラバラと結構な量の鮮血が飛び散り、赤く床を濡らす。やれやれ、後で掃除しなくちゃな。何とも憂鬱な想いに陥りながら――、俺は元霧島キリエの身体を床の上に叩きつけていた。
骨ばった身体が固い床に打ち付けられ、無残に歪む。骨の詰まったずだ袋をそうした時のように、内側で砕け散る音がいくつも響いていた。それでもなお、怪異の悪意は衰えを見せなかった。恨みがましい呻き声をあげ、肉に圧し潰されて隠れた目に殺意を燃やし、俺を睨み上げる。
(――……ごめんな)
心のなかで短く詫び――俺は怪異の縦に大きく裂けた穴のような口を力一杯踏み抜いていた。
「ああ、終わった終わった。ミサキさん達、今日はこのまま帰ってくれていいよ。ちょっと一部の売り場が酷いことになってるけど、俺一人でも何とか片づけできそうだからさ」
「あの、お客様には何て言えば……」
「そうだな。店内がもう買い物なんて続けられる状況じゃないって説明してお帰り頂くのと今日のお詫びに後日、クーポンをお配りしますとアナウンスお願いできるかな。……こういうことは童ノ宮じゃ珍しくないし、みなさん、それで納得してくれると思うんだが」
「は、はぁ……。ですけど、鳥羽店長……」
「……何?」
「本当に大丈夫ですか? お怪我とか、されたんじゃ……。声が何だか変ですよ?」
「あ、ああ…….確かにちょっと障られたかもな。……ま、風邪を引いたぐらいのもんだよ」
ミサキはまだ何かを言いたそうだったが、「それじゃあ、よろしく」とだけ告げて俺は通話を切っていた。
そして、数えることすら煩わしくなった、今日何度目かのため息をつき足下を見下ろす。光が戻った洋服コーナー。
その床に飛び散っているのは元霧島キリエ――怪異の残骸だった。一言でいえば腐った肉の塊だ。見ているだけで吐き気を催すような、グチャグチャの。
霊毒に冒された俺の顔もそれに負けないぐらいグチャグチャだが、時間がたったせいか言葉を発する程度には回復していた。
……まあ、俺のことは今はどうでもいい。問題はこの残骸をどうするか、だ。店の中にこのまま放置するのは論外だとしても、清掃業者を呼んで始末してもらうというわけにもいかない。
相手は怪異だ。どんな理由で息を吹き返し、また暴れだすか分かったものではない。やはり、これは童ノ宮、塚森家の連中に任せるしかないだろう。
しかるべき処置の後、欠片も残さず焼き払うのだ。
と、俺は人の形に床に広がる腐肉のなかに広がるものを見つける。思わず拾い上げたそれは――イヤリングだった。
不自然なほど大きくも世辞にも品がいいとは言えないシルバーの。
だけど、霧島キリエはこれを自慢にしていた。
生前も死後も何もしてやれなかった詫びというわけでも同情しているわけでもないが、全く知らない仲でもない。
後日、遺族に届けてやるなり、墓に供えてやるぐらいのことはしても罰は当たらない気がした。
と、その時だった。バックヤードに繋がる従業員専用のドアが開いて、
「――あ、あのう、すみません。さすがにそろそろ限界なんですけど……」
半泣きになって顔を見せたのは、例の万引き小僧だった。
……そうだった。こいつのことを忘れていた。俺達がドタバタしている間、トイレにも行けず待ちぼうけだったというわけだ。さすがに申し訳なくなり、俺は答えていた。
「ああ、悪かったな。お前も、もう帰ってくれていいよ。その代わり、万引きなんて馬鹿な真似は」
二度とするなよ、俺が言いかけた時だった。
俺と目を合わせた万引き小僧が顔面蒼白になる。血走らせた目をまんまるに大きく見開かせ、酸素不足の金魚のように口をパクパクとさせている。
しまった、と俺が後悔する間もなく化鳥のような絶叫が店内にほとばしっていた。
(了)
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コメント
1件
うわ、これ面白かった……! スーパー店長×怪異退治、めっちゃ良い組み合わせじゃん。鳥羽リョウの「雇われ店長」って設定がまず渋いし、実は千年生きてるってバックボーンも気になる。戦闘シーンも生々しくて、自分の顔腐りながら戦う主人公とかアツすぎるわ。元霧島キリエの悲しい過去もちゃんと描かれてて、ただの邪魔者じゃないのが良かった。続き読みたい🔥