重い足取りで表通りまで出た海斗は、タクシーを止めて乗り込んだ。
リハーサルが長引きこんなに遅い時間になってしまった。
海斗はこの日とても疲れていた。
ここ最近忙し過ぎて、睡眠時間もあまりとれていない。
とにかく今は一刻も早くベッドに倒れ込みたかった。
心も身体もひたすら睡眠を欲している。
深夜の都会を軽快に走るタクシーの窓には、華やかな世界の光に滲んだ街並みが流れていく。
ラジオから聞こえる甲高い声の女性が、「今日は満月ですね」と言った。
満月か。最後に月を見たのはいつだっただろう?
そんなことをぼんやりと考えていると、タクシーは自宅近くに着いた。
何か食べてから眠りたいと思っていた海斗は、家に食料がない事に気付く。
そしてコンビニへ寄ろうと思い踵を返して今来た道を戻り始める。
途中にある公園に差し掛かった時、何かがキラリと光った。
(ん? なんだ?)
この公園は、昼間は小さな子供を連れた主婦で賑やかだが深夜は誰もいない。
(あの光はなんだ?)
気になった海斗は公園の傍まで行き中の様子をうかがった。
公園の少し小高くなった丘の上に人影らしきものが見える。
(まさか幽霊?)
そんなはずはないと思いながらもう一度目を凝らしてみる。
するとそこには一人の女性がいた。
女性は月に向かって手をかざしじっとしている。
(一体何をしているんだ?)
その時またキラリと何かが光る。
その光は女性の右手で光っていた。
今夜は月明かりが眩しいくらいなので、女性のアクセサリーか月明かりに反射したのだろうか?
よく見ると女性の傍に三脚のようなものが見えた。
(カメラの三脚?)
彼女はこんな深夜に一人で何をしているのだろうか?
真夜中に写真撮影?
気になった海斗は、公園の中へ入り女性に近づいて行った。
不審者と思われたくなかったので、あえて足音を立てて近づく。
海斗は女性の二メートル手前まで近付くと声をかけた。
「こんばんは」
その声に驚いた女性が振り返る。
年の頃は三十代前半くらいだろうか?
女性はスリムでスラッと背が高く、ジーンズを履いていた。
ストレートの髪は肩よりも少し長い。
「こんばんは」
女性は海斗が不審者ではない事がわかると、挨拶を返してくれた。
先ほど見えた三脚の上には、カメラではなく天体望遠鏡が載っていた。
女性は天体観測をしていたようだ。
「満月ですか?」
「はい。今夜は気流がいいのでかなり見応えがありますよ、観てみます?」
「えっ? いいんですか?」
「もちろん。ちょっと待ってて下さいね」
女性は望遠鏡を覗き込むとピントを合わせてくれる。
そして調整が終わると、
「どうぞ」
と言って海斗にその場を譲った。
海斗が腰を屈めて望遠鏡を覗き込むと、そこには月の全景が映し出されていた。
「おーっ、すごいっ!」
海斗は思わず叫ぶ。
「今日は空の条件がいいので、クリアに観られてラッキーです」
女性は微笑んで言う。
子供の頃、海斗は兄が持っていた望遠鏡を覗いた事はあるが、それがどんなだったかは覚えていない。
兄は天文好きだったが、海斗は当時から音楽まみれの日々。
だから誕生日に兄は望遠鏡、海斗はギター。
そんな子供時代だったなぁと当時を懐かしく思い出す。
「クレーターがくっきり観えますね。望遠鏡でここまで観えるなんてすごいや」
海斗が感動しながら覗いていると、月がどんどん動いてレンズから外れいく。
そしてあっという間に全体像が観えなくなってしまう。
「月ってこんなに速く移動するんですね」
「はい、星が動くように月もあっという間に移動していきますね」
女性はそう言いながら望遠鏡を覗き、また月をレンズの中央に戻してくれた。
「月には『海』があるのをご存知ですか?」
「え? 海? 知らないです」
「海と言っても地球にある海とは違うんですが、海の名前がついた場所がいくつかあるんです。
例えば『晴れの海』、『静かの海』、『豊かの海』とか他にもいろいろ…」
「へぇ、そうなんだ。なんかロマンティックな名前だな…」
そんな会話をしていると、あっという間時間が経っていた。
あまり邪魔しても悪いと思った海斗は言った。
「貴重なモノを見せていただきありがとうございました」
「どういたしまして」
女性はにっこりと微笑む。
「そう言えば、さっき月に手をかざしていましたよね?
実はその時何かがキラッと光ったので気になってこの公園に入ってきたんですが…」
「ああ、これかな?」
女性はそう言って右手に着けているブレスレットを見せてくれた。
シルバーのブレスレットには、小さな三日月のモチーフがぶら下がっている。
「これに月のパワーを充電しようと思ったんです」
女性はそう言ってフフッと笑った。
「なるほど。エネルギーチャージ?」
「ええ…」
「この公園ではよく月を観るの?」
「はい。普段はカメラで撮影する事が多いのですが…」
「月の写真を? それは難しそうだなぁ…」
「はい。でも楽しいですよ。月と遊んでいるみたいで…」
女性はそう言って微笑む。
「月と遊ぶ……かぁ。いい表現ですね。撮った月の写真って今見られます?」
「ああ、えーと、スマホにあったかな? 今日はカメラ持ってきていないので…ちょっと待って下さい…」
女性はそう言ってスマホをいじり始めた。
「あった…これです」
スマホには、クレーターがくっきりと写った月の姿が何枚も表示されていた。
それを見た海斗は驚く。
「これ、全部自分で撮ったの? すごいな…」
「いえ、私なんて…もっと上手い人がいっぱいいますから」
女性は謙遜していたがどの写真も見事なものばかりだった。
「いいものを見せてもらいました。俺も月パワーを充電できましたよ、ありがとう」
「それなら良かったです」
女性はチャーミングな笑顔で言った。
海斗は軽く会釈をしてその場を離れた。
公園を出る際に後ろを振り返ると、女性は再び望遠鏡を覗いている。
(よっぽど月が好きなんだな)
海斗はそう思いながら再び歩き始めた。
気づくとぐったり疲れていたはずの身体が軽くなったような気がした。
それに気を良くした海斗は、歩きながら自分の曲を口ずさむ
その曲は「月夜」という優しい曲調のバラ―ドだった。
『君と初めて出逢った夜 優しい風が吹いていたね 言葉を交わす二人を見守るように 月は夜空で輝きを放ち続けていた』
海斗はこの曲が気に入っていた。
だいぶ昔に作った曲だが、今でもよくライブで歌う。
月夜の晩に、野外コンサートでこの曲を歌ったら最高だろうな。
観客に芝生に寝転んでもらい、月を眺めながら聴いてもらうもいい。
そろそろまた月をテーマにした曲でも作ってみるかな…
不思議な事に、次から次へとアイデアが浮かんきて途切れる事がない。
「すごいな、これが満月のパワーか!」
海斗は思わず微笑む。
今夜は魔法にでもかかったような不思議な気分だった。
満月の力で、何か奇跡が起きてもおかしくない…そんな風に思えた。
そしてその満月の夜は、海斗にとって全てが始まる運命の夜となった。
コメント
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海斗さんの歌「月夜」まるで今夜出逢った2人にぴったりの歌詞🥹🥹🥹今回はじっくりと読ませていただきます。
私も大好きな作品です!読むたびに好きの度合いが強くなります。ゆっくり、大切に読みたい作品です。瑠璃マリ先生、ありがとうございます😊
昼間だけどこんばんは🌕満月チャージ💗引き寄せられますよね😊 どんなストーリーになるのか楽しみたいです😸