テラーノベル
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#ハッピーエンド
26
ぐにゃりと曲がった太い腕。
岩のような皮膚。
血走った小さな目が、ぎょろりと三人を見下ろす。
トロールだった。
口元にはニヤリと歪な笑み。
獲物を追い詰めた捕食者の、確信だけでできた笑みだ。
濁った瞳が、舐めるようにこちらを往復する。
その視線を受け止めたまま、ダリウスは短く息を吐いた。
「……オットー、頼む」
それだけ言って、肩の力を抜く。
胸の奥が、すっと冷える。
耳の奥で鳴っていたものが遠のいた。
トロールの唸りも、折れた枝の落ちる音も、ミラの荒い息も。全部、薄い膜の向こうへ押し出される。
視界の端に散っていた色が、輪郭だけを残して整理される。
揺れる葉。転がる石。トロールの足の運び。
ばらけた情報が、一本の「流れ」になる。
ダリウスは地面を蹴った。
次の瞬間には、もう懐だ。
「——《グランドスマッシュ》!」
振り上げた剣を、棍棒を握る右腕へ叩きつける。
鈍い手応え。骨の硬さ。裂ける肉。
衝撃が柄を通って肘まで返ってきた。
右腕が、肘から先ごと宙を舞う。
ずしん、と地面へ落ちる。
「ぶろぉおおおおお!!」
苦痛と怒りの咆哮。
トロールがまた身体を丸めた。
その瞬間、ダリウスの中で何かが繋がる。
転がり始める巨体を、目で追いながら。
(……こいつ、やみくもに暴れてるわけじゃない……)
さきほどの転がり方。ぶつかった木の位置。飛び散った石の散り方。
頭の中で、それが順番どおりに並ぶ。
わざと障害物にぶつかって、破片を撒いていた。狙って。
(狙って転がってたのか……やっぱり、知能があるな)
太い枝が飛ぶ。岩片が跳ねる。
ダリウスの身体は、危険だと判断する前に動く。
小さなステップ。上体の角度。膝の抜き。
木片が頬の横を抜け、石が足元をかすめ、空気だけが切れる。
頭の中は静かなままだった。
右。次は左、低い。三つ目は肩の高さ。
巨体の動きの「空白」に、細い道が一本通っている。
そこへ、レールに乗るみたいに入る。
一気に距離を詰めた。
*
エドガーは地面に横たわったまま、ふと瞼を持ち上げた。
視界の端で、ダリウスがトロールの懐へ飛び込む。
腕を失ったトロールは目を血走らせ、それでも転がりながら頭をこちらへ向けていた。
(オットー……あなたが……)
盾を構えたまま踏ん張る戦友の背中が、脳裏をかすめる。
(あなたが、正しかったのかも……しれませんね)
焦点が滲む。
その言葉だけが、意識の底に沈んだ。
*
「——《スラッシュ》!」
ダリウスの剣が、トロールの腹部へ深々と突き立った。
厚い皮膚と脂肪を貫いた瞬間、熱い生臭さが刃の根元まで押し返してくる。
だが、トロールは止まらない。転がる。
回転する巨体に引きずられ、刃がわずかに流された。
狙っていた心臓から、ほんの数寸外へ。
致命傷には至らなかった。
(……ちっ)
舌打ちの衝動を、喉の奥で噛む。
静けさの底で、砂が落ちる感覚がある。
(今ので——二十五秒)
超集中に入る前に、何度も測った。
動きながら、息をしながら、限界だけを。
一分半が完全な限界。
安全圏は半分、三十秒。
(……三十秒経った。ここからは危ない)
冷静な声が、頭の中で囁く。
(あと一歩で狩れる。ここで決めるか、それとも——シールドまで戻るか)
腹から血が噴き、回転が鈍る。
今なら踏み込める。仕留められる。たぶん。
だが、その一歩を何で踏み込む?
筋力か。根性か。惰性か。
それとも、さっきまでの静けさか。
(……俺は、どっちを選ぶ?)
一瞬だけ、喉の奥で「いける」が熱を持つ。
瞬き一つにも満たないのに、その熱は粗い。
静かだった均衡に、細いひびが入る。
澄んでいた輪郭が、わずかに揺れる。
(……あ)
世界の見え方が変わった。
流れが、塊になる。
「速い」「重い」「でかい」が、まとめて押し寄せる。
「……っ!?」
ダリウスは息を呑む。
足が鉛みたいに重い。
重心移動がぎこちない。
身体が急に酸素を欲しがり始める。
「はぁ……っ、はぁ……」
肺が焼ける。
さっきまで後ろに控えていた疲労が、いきなり背中にのしかかってくる。
(……まずい)
足を引こうとした、その瞬間。
巨体が一直線に迫ってきていた。
視界の端で森が回転する。
一歩が、間に合わない。
「——っぐ!」
転がりが横から叩きつける。
岩に正面衝突したみたいな衝撃。
空気が肺から押し出され、骨がきしむ。
身体が地面を離れた。
宙を舞う。
次の瞬間、背中から岩へ叩きつけられる。
鈍い音が、森の奥へ響いた。
「なんでだ!? まだ三十秒だぞ!? くそっ!」
オットーは舌打ちし、シールドを前に突き出したまま飛び出す。
二歩目を踏み出した瞬間、右膝に焼けるような痛みが走った。
「っ……あ゛ぁあああっ!!」
膝から力が抜ける。片足を引きずる。
この感覚は、何度も覚えがあった。痛風。
(こんな時に、またかよ……!)
喉の奥まで上がった怒鳴り声を、そのまま吐き出す。
「くそぉおお! こんな時に!」
足が出ないなら——。
オットーは大斧の柄を握り込み、ぐるりと振りかぶる。
そのまま投げつけた。
ぶうん、と回転する刃が唸り、片腕を失った傷口へ吸い込まれる。
肉を裂き、骨を砕き、残った肉片にまでめり込んだ。
「ぼぉおおおおお!!」
トロールの叫びが変わる。
苦痛ではない。憎悪の色が混じる。
矛先が、オットーへ向く。
巨体が丸まり、地面を削って回転する岩みたいに迫ってくる。
オットーは片膝を引きずりながらも、一歩前へ出た。
「——来やがれぇえええ!! 《シールドバッシュ》!!」
光の盾が前面に展開され、突進と真正面からぶつかる。
轟音。
地面がめり込み、小石が跳ねる。
だが右膝が踏ん張れない。押し返せない。じりじりと後退を強いられ、靴裏が土を削っていく。
「ぐっ……!」
シールドの表面にひびが走る。ビキビキ、と音がした。
光が強くなり、弱まり、また強くなる。周期が速い。
「なめんなよぉおおおお!! 動け!! 右膝ぁああああ!!」
意地と怒鳴り声を叩きつける。
右膝から痛みと熱が上がる。
それでも退かない。
盾越しに伝わる圧が重くなる。
脂汗が額から顎へ流れ、鎧の中へ落ちた。
(……やっと、頭が冷えてきたぜ)
トロールの咆哮と自分の荒い呼吸の奥で、落ち着いた思考が顔を出す。
(やっぱり……ダリウスの超集中は、不安定だった……エドガーの言った通りになっちまった)
あの時、別の言い方ができた。
もっと穏やかに話せた。
思うたび、胸がじくじく痛む。
シールドが点滅する。
(……へっ)
オットーは自嘲気味に笑う。
(シールドが消えた瞬間、俺は死ぬ)
だから——。
(どうせ死ぬなら“あの技”を使うしかねえか……)
そこへ、別の思いが刺さる。
(……エドガーに、謝っときゃよかったぜ)
昔と違う、と言ってしまったこと。
あいつの目が揺れたのを見て、見なかったことにしたこと。
胸の奥で込み上げるものを、噛み殺して前を睨む。
その時だった。
「……よく……やりました……オットー」
背後から、かすれた声。
「エドガー……?」
振り返らなくてもわかった。
ふらつきながらも、エドガーは魔導書を胸の前に掲げていた。顔色はまだ悪い。だが、目は冷えている。いつもの光だ。
彼はゆっくり腕を振りかぶった。
「——《業火の抱擁》!」
次の瞬間、地面から炎がうねり上がった。
赤と白と橙が絡み、一本の巨大な焔がトロールに巻きつく。
燃えるだけじゃない。締めつける。抉る。中を焼く。
トロールの咆哮が悲鳴に変わる。
皮膚が黒く焼けただれ、筋肉が炭になって崩れる。
最後には形が保てなくなり、炎の中で崩れ落ちた。
爆風が森を揺らし、焦げた匂いが広がる。
炎が収束し、煙だけがゆらゆらと上へ昇っていった。
そこには、骨の欠片すら残っていなかった。
オットーはようやくシールドを降ろした。
右膝が限界を迎えたように、地面へ崩れ落ちる。
「……ったく、派手にやりやがって」
息を整えながら呟く。
背後で、小さな笑い声が聞こえた気がした。
それが本当に笑い声だったのか。
それとも自分の耳が、聞きたかった音だったのか。
今のオットーには、確かめる余裕がなかった。
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