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ぐにゃりと曲がった太い腕。
岩のような皮膚。
血走った小さな目が、ぎょろりと三人を見下ろす。
トロールだった。
口元にはニヤリと歪な笑み。
獲物を追い詰めた捕食者の、確信だけでできた笑みだ。
濁った瞳が、舐めるようにこちらを往復する。
その視線を受け止めたまま、ダリウスは短く息を吐いた。
「……オットー、頼む」
それだけ言って、肩の力を抜く。
胸の奥が、すっと冷える。
耳の奥で鳴っていたものが遠のいた。
トロールの唸りも、折れた枝の落ちる音も、ミラの荒い息も。全部、薄い膜の向こうへ押し出される。
視界の端に散っていた色が、輪郭だけを残して整理される。
揺れる葉。転がる石。トロールの足の運び。
ばらけた情報が、一本の「流れ」になる。
ダリウスは地面を蹴った。
次の瞬間には、もう懐だ。
「——《グランドスマッシュ》!」
振り上げた剣を、棍棒を握る右腕へ叩きつける。
鈍い手応え。骨の硬さ。裂ける肉。
衝撃が柄を通って肘まで返ってきた。
右腕が、肘から先ごと宙を舞う。
ずしん、と地面へ落ちる。
「ぶろぉおおおおお!!」
苦痛と怒りの咆哮。
トロールがまた身体を丸めた。
その瞬間、ダリウスの中で何かが繋がる。
転がり始める巨体を、目で追いながら。
(……こいつ、やみくもに暴れてるわけじゃない……)
さきほどの転がり方。ぶつかった木の位置。飛び散った石の散り方。
頭の中で、それが順番どおりに並ぶ。
わざと障害物にぶつかって、破片を撒いていた。狙って。
(狙って転がってたのか……やっぱり、知能があるな)
太い枝が飛ぶ。岩片が跳ねる。
ダリウスの身体は、危険だと判断する前に動く。
小さなステップ。上体の角度。膝の抜き。
木片が頬の横を抜け、石が足元をかすめ、空気だけが切れる。
頭の中は静かなままだった。
右。次は左、低い。三つ目は肩の高さ。
巨体の動きの「空白」に、細い道が一本通っている。
そこへ、レールに乗るみたいに入る。
一気に距離を詰めた。
*
エドガーは地面に横たわったまま、ふと瞼を持ち上げた。
視界の端で、ダリウスがトロールの懐へ飛び込む。
腕を失ったトロールは目を血走らせ、それでも転がりながら頭をこちらへ向けていた。
(オットー……あなたが……)
盾を構えたまま踏ん張る戦友の背中が、脳裏をかすめる。
(あなたが、正しかったのかも……しれませんね)
焦点が滲む。
その言葉だけが、意識の底に沈んだ。
*
「——《スラッシュ》!」
ダリウスの剣が、トロールの腹部へ深々と突き立った。
厚い皮膚と脂肪を貫いた瞬間、熱い生臭さが刃の根元まで押し返してくる。
だが、トロールは止まらない。転がる。
回転する巨体に引きずられ、刃がわずかに流された。
狙っていた心臓から、ほんの数寸外へ。
致命傷には至らなかった。
(……ちっ)
舌打ちの衝動を、喉の奥で噛む。
静けさの底で、砂が落ちる感覚がある。
(今ので——二十五秒)
超集中に入る前に、何度も測った。
動きながら、息をしながら、限界だけを。
一分半が完全な限界。
安全圏は半分、三十秒。
(……三十秒経った。ここからは危ない)
冷静な声が、頭の中で囁く。
(あと一歩で狩れる。ここで決めるか、それとも——シールドまで戻るか)
腹から血が噴き、回転が鈍る。
今なら踏み込める。仕留められる。たぶん。
だが、その一歩を何で踏み込む?
筋力か。根性か。惰性か。
それとも、さっきまでの静けさか。
(……俺は、どっちを選ぶ?)
一瞬だけ、喉の奥で「いける」が熱を持つ。
瞬き一つにも満たないのに、その熱は粗い。
静かだった均衡に、細いひびが入る。
澄んでいた輪郭が、わずかに揺れる。
(……あ)
世界の見え方が変わった。
流れが、塊になる。
「速い」「重い」「でかい」が、まとめて押し寄せる。
「……っ!?」
ダリウスは息を呑む。
足が鉛みたいに重い。
重心移動がぎこちない。
身体が急に酸素を欲しがり始める。
「はぁ……っ、はぁ……」
肺が焼ける。
さっきまで後ろに控えていた疲労が、いきなり背中にのしかかってくる。
(……まずい)
足を引こうとした、その瞬間。
巨体が一直線に迫ってきていた。
視界の端で森が回転する。
一歩が、間に合わない。
「——っぐ!」
転がりが横から叩きつける。
岩に正面衝突したみたいな衝撃。
空気が肺から押し出され、骨がきしむ。
身体が地面を離れた。
宙を舞う。
次の瞬間、背中から岩へ叩きつけられる。
鈍い音が、森の奥へ響いた。
「なんでだ!? まだ三十秒だぞ!? くそっ!」
オットーは舌打ちし、シールドを前に突き出したまま飛び出す。
二歩目を踏み出した瞬間、右膝に焼けるような痛みが走った。
「っ……あ゛ぁあああっ!!」
膝から力が抜ける。片足を引きずる。
この感覚は、何度も覚えがあった。痛風。
(こんな時に、またかよ……!)
喉の奥まで上がった怒鳴り声を、そのまま吐き出す。
「くそぉおお! こんな時に!」
足が出ないなら——。
オットーは大斧の柄を握り込み、ぐるりと振りかぶる。
そのまま投げつけた。
ぶうん、と回転する刃が唸り、片腕を失った傷口へ吸い込まれる。
肉を裂き、骨を砕き、残った肉片にまでめり込んだ。
「ぼぉおおおおお!!」
トロールの叫びが変わる。
苦痛ではない。憎悪の色が混じる。
矛先が、オットーへ向く。
巨体が丸まり、地面を削って回転する岩みたいに迫ってくる。
オットーは片膝を引きずりながらも、一歩前へ出た。
「——来やがれぇえええ!! 《シールドバッシュ》!!」
光の盾が前面に展開され、突進と真正面からぶつかる。
轟音。
地面がめり込み、小石が跳ねる。
だが右膝が踏ん張れない。押し返せない。じりじりと後退を強いられ、靴裏が土を削っていく。
「ぐっ……!」
シールドの表面にひびが走る。ビキビキ、と音がした。
光が強くなり、弱まり、また強くなる。周期が速い。
「なめんなよぉおおおお!! 動け!! 右膝ぁああああ!!」
意地と怒鳴り声を叩きつける。
右膝から痛みと熱が上がる。
それでも退かない。
盾越しに伝わる圧が重くなる。
脂汗が額から顎へ流れ、鎧の中へ落ちた。
(……やっと、頭が冷えてきたぜ)
トロールの咆哮と自分の荒い呼吸の奥で、落ち着いた思考が顔を出す。
(やっぱり……ダリウスの超集中は、不安定だった……エドガーの言った通りになっちまった)
あの時、別の言い方ができた。
もっと穏やかに話せた。
思うたび、胸がじくじく痛む。
シールドが点滅する。
(……へっ)
オットーは自嘲気味に笑う。
(シールドが消えた瞬間、俺は死ぬ)
だから——。
(どうせ死ぬなら“あの技”を使うしかねえか……)
そこへ、別の思いが刺さる。
(……エドガーに、謝っときゃよかったぜ)
昔と違う、と言ってしまったこと。
あいつの目が揺れたのを見て、見なかったことにしたこと。
胸の奥で込み上げるものを、噛み殺して前を睨む。
その時だった。
「……よく……やりました……オットー」
背後から、かすれた声。
「エドガー……?」
振り返らなくてもわかった。
ふらつきながらも、エドガーは魔導書を胸の前に掲げていた。顔色はまだ悪い。だが、目は冷えている。いつもの光だ。
彼はゆっくり腕を振りかぶった。
「——《業火の抱擁》!」
次の瞬間、地面から炎がうねり上がった。
赤と白と橙が絡み、一本の巨大な焔がトロールに巻きつく。
燃えるだけじゃない。締めつける。抉る。中を焼く。
トロールの咆哮が悲鳴に変わる。
皮膚が黒く焼けただれ、筋肉が炭になって崩れる。
最後には形が保てなくなり、炎の中で崩れ落ちた。
爆風が森を揺らし、焦げた匂いが広がる。
炎が収束し、煙だけがゆらゆらと上へ昇っていった。
そこには、骨の欠片すら残っていなかった。
オットーはようやくシールドを降ろした。
右膝が限界を迎えたように、地面へ崩れ落ちる。
「……ったく、派手にやりやがって」
息を整えながら呟く。
背後で、小さな笑い声が聞こえた気がした。
それが本当に笑い声だったのか。
それとも自分の耳が、聞きたかった音だったのか。
今のオットーには、確かめる余裕がなかった。