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会議が長引いた彪さんより先に帰って来た私は、総菜をお皿に移しながら考えていた。
自分で言った、『彪さんと真剣に向き合っている』の意味みついて。
私は本当に、彪さんと向き合えているだろうか。
彪さんはいつも真摯に、誠実に、真っ直ぐに、気持ちを伝えてくれる。
私は……?
私には恋愛経験がない。
男性のことでこんな風に悩んだことがない。
だから、正解がわからない。
『深く考えずに彪さんに気持ちを伝えなよ。迷う理由も一緒に。あとは、彪さんが何とかしてくれるよ』
倫太朗が言う通り、話してみてもいいだろうか。
けど、かなり面倒なんじゃ……。
「――いま」
面倒だからって嫌われたらどうしよう。
「――だいま」
嫌われたくない。
だけど――。
「椿!」
すぐ間近で呼ばれ、私はハッとした。
いつの間にか、彪さんがすぐ横で私の顔を覗き込んでいる。
「あ、お帰りなさい! すみません、ボーッとして」
「いや、いいけど。嫌われたくないって、なに?」
「へ?」
「今、言ってたろ? 『嫌われたくないけど』って」
口に出てた!
「いえ、何でもありません」
「そう?」
誤魔化しているのを見透かすように、彼は私の瞳をじっと見つめる。
私は、苦手だ。
彪さんは綺麗だと言ってくれたけれど、私は自分の碧い瞳が嫌いだから、見つめられるのは苦手だ。
「そう言えば……」
「うん?」
「あ、後にします。まずはご飯にしましょう」
「ああ、着替えてくる」
彪さんがリビングを出て行ったタイミングで、私のスマホが着信を知らせた。
彪さんでないということは、相手は倫太朗だ。
清掃業務をしていた頃は、極々稀に時間変更の連絡が入ったが、それがない今は、彪さんか倫太朗との連絡手段でしかない。
「もしもし?」
『あ、椿ちゃん。仕事中?』
「帰ってるよ」
『そっか、お疲れ』
テンション高めの彼の声の向こうで、アナウンスが聞こえた。空港にいるようだ。
「空港?」
『うん、そう。これからシンガポール。帰ったらお土産渡しに行くからー』
「いいよ、そんなの。気をつけてね」
『うわー。今の言い方、何か新婚の奥さんみたい』
「は?」
『あ、ごめんごめん。ね、彪さんと話した?』
「何を?」
『この前言ったじゃん。思ってることや不安なこと、ちゃんと話せって』
「言ってない」
『やっぱりねー。ま、そうだろうとは思ったけど』
「わざわざそれを聞きに電話してきたの?」
『プロポーズした身としてはねー。ちょっと気になってさ』
プロポーズ……。
そう言えば、されたような。
「私と倫太朗が結婚なんて、ないでしょ」
『そう? 俺は結構本気だよ? ま、椿ちゃんが彪さんと上手くいかなかったら、の話だけど』
「それは――」
『――椿ちゃんもいい年なんだから、初恋拗らせてないで、さっさと決着つけなよ。トラウマの方も』
「初恋……?」
『うん。椿ちゃんの本気の初恋って彪さんでしょ?』
初恋……?
『あ! じゃあ、もう行かなきゃ。帰ったら椿ちゃんの手料理食べさせてねー』
「…………」
ホーム画面に戻ったスマホを耳に当てたまま、私はしばらく呆けていた。
初恋……?
私の初恋が彪さん……?
「誰と誰が結婚するって?」
低く棘のある声が、すぐ耳元で聞こえた。
その短い言葉だけで、彪さんが苛立っているというか怒っているというか、とにかく不機嫌であるとわかった。
「待つとは言ったけど、その間に掻っ攫われるのは許せないんだけど」
恐る恐る振り返ると、彪さんが今までになく無表情で私を見下ろしていた。
とても、とても怒っているのがわかる。
「倫太朗の冗談で――」
「――本当にただの冗談?」
「はい」
「……」
じっと見つめられたまま、数秒の無言。
誤解されたのではと、不安になる。
倫太朗に冗談だったと説明してもらおうにも、彼はもうスマホの電源を切っているだろう。
「あの、本当に――」
「――そう。わかった」
そう言うと、彪さんは私の手元の皿を持った。
「温めればいい?」
「え? あ、私が――」
「椿はそっちのタッパーを皿に移して」
「はい……」
あっさり納得され、なんだか少し拍子抜けした。
そして、それがまた心の中でモヤモヤする。
本当にわかってくれたのだろうか。
面倒臭いからわかったことにされただけだろうか。
そもそも、倫太朗との関係を疑われていたのだろうか。
急に、色々なことが不安になる。
どうしたのだろう。
生理が近いのだろうか。
どうしてこんなに不安なのだろう……。
「椿? どうした?」
お皿をレンジに入れた彪さんがコップと麦茶を持って戻って来た。
私は、タッパーの蓋に手をかけたまま。
彪さんに見つめられると、苦しい。
怖い。
「椿? おい、どうした?」
心配そうに私を見つめる彪さんが、ゆらゆら歪む。
「具合悪いか? 大丈夫か? ちょ、座ろう。おいで」
彼に手を引かれ、私はソファに移動した。
その間、涙が頬を伝い、フローリングに滴った。
彪さんは私の足元に跪き、私の両手を握った。
「横になるか?」
首を振ると、余計に涙が零れた。
「熱がある?」
私の手を握る彼の手が離れていくのが嫌で、ギュッと握り返す。
ドッドッドッと、激しい鼓動が鼓膜のすぐ向こうに聞こえる。
覚えがある。
以前、一度だけこんな風に突然、言い表せない不安に襲われたことがある。
八年前、おばあちゃんが亡くなった時。
「っひょ……うさんは――」
涙のせいで、声が上手く繋がらず、私は細切れに息を吸った。
「――彪さんが私を好きなのは、本当ですか」
彼の目が大きく開かれたのが何となく見えた。
いきなり過ぎて、驚かれているのだろう。
私自身、急に襲われた不安を、うまく表現できない。
それなのに、何でもない顔で不安を飲み込めもしない。
「倫太朗は……っ、私を心配して、くれ、ただけで、結婚なんて冗談で――。わたっ、私は、しゃ、借金があって、家族も、いなくて、頭も良くないし、変な色の目で、綺麗じゃないし――」
何を言っているのだろう。
何が言いたいのだろう。
自分でもわからないまま、一度堰を切ってしまうと、止められない。
「――ひょ、彪さんが好きだって言ってくれて、うっ、嬉しいのに、……嬉しいけど、こ、怖くて――」
泣きながらわけのわからないことを言う私を、彪さんは黙って見つめている。
嫌われたくないのに、止められない。
こんなことを言ってしまったら、嫌われるかもしれないのに、止められない。
「――信じてっ、また、違ったって、嘘だったって、なったら、イヤで、怖くて、だから、それなら、一人でいた方が、いいって思って。だけど、本当はっ、家族、欲しくて――」
めちゃくちゃだ。
自分でも何を言っているのかわからない。
それでも、止まらない。
涙も、言葉も。
「――俺みたいな男と縁がありますように、って拝んでたもんな」
「……?」
「最初に会った時」
つい数か月前のことなのに、なんだか何年も前の出来事のように思える。
が、憶えている。
尊敬する是枝部長とお話しできる状況に舞い上がり、なにかほんの少しでも通じるものがあればと、拝ませて欲しいなどと言った。
「みたいな、じゃなくて、俺でいいだろ」
滲んでいても、彪さんの顔がゆっくりと近づいているのがわかる。
「もう、俺との縁、がっつり繋がってるだろ」
私はゆっくりと目を閉じた。
「もう、一人で頑張らなくていいから」
しょっぱいキス、だった。