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触れ合うだけのキスを交わし、俺はただ椿を抱き締めていた。
小さな子供の様に嗚咽を漏らしながら泣きじゃくる彼女は、必死に俺にしがみつき、離さないでと訴えているように思えた。
なにがあったのかは気になるところだが、今は椿の気持ちを落ち着かせてやりたくて、何も聞かなかった。
しばらくして、椿はゆっくりと顔を上げた。
「すみません……」
俯いたままそう呟いた彼女の目元は真っ赤に腫れ、痛々しい。
「タオルを持って来るよ。冷やした方がいい」
そう言って俺は立ち上がろうとしたが、彼女が握ったままのスウェットがピンと伸びて、腰をかがめたまま動きを止めた。
気づいた椿がパッとその手を離した。
「すみませ――」
「――すぐに戻るよ」
彼女の手をそっと握り、そう言って離した。
洗面所でタオルを冷水で濡らし、戻って椿の目元に当てた。
「すみません」
たった一、二分で三度も口にした彼女の謝罪に、胸が痛む。
口癖のようなものかもしれないが、それがまたやるせない。
彼女は今まで、何度こうして謝罪を口にしてきたのか。
「もう、謝るな」
「……」
タオルで目元を押さえたままの椿を抱き締める。
「椿は何も悪いことなんてしてないだろう?」
「……ありがとう……ございます」
スウェットの胸元が冷たいのは、涙のせいかタオルのせいか。
それとも、気の利いた言葉の一つも思い浮かばない自分が情けないからか。
「ご飯、冷めちゃいましたね」
抱きしめたままチラリとダイニングに目を向ける。
「食べられそ?」
腕の中で彼女が頷いたことを確認すると、俺は立ち上がった。
「温め直すか」
「あ、私が――」と、タオルから瞳を覗かせた彼女の肩を軽く押し、ソファに押し留めた。
「――俺がやるから、もう少し冷やしておきな」
そうは言っても、レンチンするだけだ。
椿は洗面所で顔を洗ってから席についた。
「食事中に相応しくないかもしれないのですが――」
きんぴらごぼうを咀嚼しながら、彼女が言った。
「――私の話を聞いてもらえますか」
「うん」
俺はジャーマンポテトを口に入れた。
美味かった。
バターと塩コショウだけではなくて、コクがあると言うかまろやかと言うか香ばしい。とにかく美味くて、それを言おうと思ったが、タイミングを逃した。
「祖母が亡くなる数日前に、言われたんです。『気味の悪いその目で見るな』『孫でも何でもない他人のために、どうして私たちが犠牲にならなきゃいけないんだ』って」
「え――?」
驚いて箸が止まった俺とは対照的に、彼女は顔色を変えず、少し遠くを見ながら続けた。
「倫太朗は、痴呆症のせいで記憶が混乱したんだろうって言いました。その時は、私もそう思いました。だけど、祖母が亡くなって、お葬式で親戚が話しているのを聞いたんです。『たった一人の息子が子持ちの女と結婚した挙句、その子を遺して死んじまったせいで、しなくていい苦労をする羽目になったから、命を縮めたんだ』って」
じゃあ、椿は母親の連れ子で、父親とは血の繋がりがない……?
「私、両親が生きている時、祖父母には会ったことがなかったんです。父方も母方も。子供の頃になぜかを聞いたら、『いないから』とだけ答えてくれました。引き取られた後、祖父にも聞きました。そうしたら、『結婚に反対して疎遠になったから』と言われました。要するに、駆け落ちだったようです」
椿はいつも、背筋を伸ばし、お手本のような箸の持ち方で、音を立てずに食事をする。
美味しそうに、ゆっくりと。
育ちが良さそうだとは感じていた。
だからか、とても愛されて、大事に育てられたのだろうと思い込んでいた。
亡くなった両親や祖父母の写真を飾るのも、寂しさや感謝からだと。
そうではないのだろうか。
「私の知っている両親はとても仲が良く、私がヤキモチを妬くほどでした。父は私を可愛がってくれたし、まさか血の繋がりがないなんて考えもしなかった。祖父母もそうです。……厳しい所もあったけど、いつも私を気遣ってくれた。それがまさか……」
椿は茶碗と箸を置き、麦茶を飲む。
そして、真っ直ぐ俺を見た。
「私はずっと、祖父母に疎まれてきたのだと思います。戸籍上は孫で、世間体からも私を引き取るしかなかった。けれど、本当は、私を見る度にたった一人の息子を奪った私の母を重ね、苦しんでいたのだと思います。祖父母には本当に申し訳なかったと――」
「――待った」
椿はずっと、ずっと誰に謝っていたのだろう。
何も悪くないのに。
「今の話のどこか、椿に落ち度があったか?」
「え?」
「椿が母親の連れ子なのも、両親が駆け落ちなのも、両親が死んで祖父母に引き取られたことも、椿の意思はどこにもないだろう」
「私の……意思……?」
『恩知らずがっ! 捨てられなかっただけ有難いと、育ててもらえただけでなくひと財産まで与えられるなど申し訳ないと思わないのか!』
大学の卒業式後、差し出された通帳を受け取った俺に、名前も知らないおじという男が言った。
何日か、何か月か振りに会った祖母は、何も言わなかった。
だから、俺も何も言わなかった。
翌日。
持てるだけの荷物を持って、家を出た。
あの時、俺は開き直った。
だが、椿は出来なかった。
それだけの違い。
「椿は、怒るべきだ。自分を遺して死んだ両親に。祖父母はいないと嘘をついた両親に。何も告げずに引き取っておきながら、ボケたからってきみを罵ったばーちゃんに」
「おこ……る」
俺は、怒った。
勝手に産んで、勝手に捨てて、勝手に引き取って、勝手に放り出した母親や、祖母に。
だから、金を受け取った。
くれると言ったから、貰っただけ。誰に責められる言われもない。
受け取ったから、祖母とは会っていない。
生きているか死んでいるかも、知らない。
俺は、誰にも謝ったりしない。
だが、一歩違えば、俺も椿のようになっていたのかもしれない。
「椿は何も悪くない」
泣かせたかったわけじゃない。
けれど、椿は泣いた。
声も漏らさず、涙が頬を伝う姿を見て、美しいと思った。