ロハン邸の庭は、ウィリスタリア国の気候風土にあった草花や、樹木を散りばめている。特に香り高い四季咲きのバラは、庭師の自慢の逸品だ。
もちろんバラ以外にも、今の季節はクレマチスやプルメリアなど夏の花が花壇の中で咲いており、特に濃いオレンジ色のノウゼンカズラがひときわ目を引いている。
けれどここはメゾン・プレザンのように、完璧に整えらえれたものではない。庭の隅には、バケツやスコップが置かれたまま。
そんな部屋と同じく、人の温もりを隠すことはしないその庭を、ティアとグレンシスはゆっくりとした足取りで散策していた。
ただし、グレンシスの腕はティアの腰に回っている。
「ティア、足は痛むか?」
片手にティアの手のひらを掴み、反対の腕はティアの腰に回しているグレンシスは、労わるように尋ねた。
「あ……だ、大丈夫です」
しどろもどろになりながら返事をするティアは、グレンシスが自分の腰に触れているのは、介護の一環だと自分に言い聞かせている。
だからこれ以上、グレンシスに甘えるのは申し訳ないという気持ちで、ティアは答えた。けれど──
「そうか。じゃあ、一人で歩けるか?」
「え?……は、はい」
突き放すようなグレンシスの冷たい口調に、ティアは嫌と言う理由が見つからず、戸惑いながらも頷いた。
その途端グレンシスは、ぱっと両手を離し、すたすたとティアを置いて歩き始めてしまった。
それから前を歩くグレンシスは、一度も振り向かない。
まるで出会ったばかりの頃を思わせるように、ティアの歩調に合わせることなく自分のペースで歩き続ける。
(何か失礼なことを……言っちゃった?私……)
ティアは、たちまち不安になった。
居候の分際で客人を招いたことを、図々しいと思われてしまったのだろうか。
それともグレンシスの優しさに甘えすぎて、彼がとうとううんざりしてしまったのだろうか。
ティアは、一生懸命グレンシスが不機嫌になってしまった理由を考える。
「あ……っ!」
気づけば、考え事に没頭していたせいで、ティアの歩調はだいぶ遅くなってしまっていた。
前を歩くグレンシスはそれに気付くどころか、歩調はより速くなり、距離が離れていく一方だった。
(どうしよう。このままだと、置いて行かれちゃう)
焦った途端、とてつもなく痛いものがティアの背後から忍び寄った。それは、足の痛みではない。置いていかれる恐怖だ。
ついさっきまで、庭の花々を綺麗だと目を細めて見ていたはずなのに、急にそれらが色あせていく。
前を歩き続けるグレンシスも、このまま消えて、いなくなってしまいそうだった。
出合ったばかりの頃、グレンシスはティアの歩調に合わせることなんてしなかった。どんどん先に進んで、ティアが必死に追いかけていた。
(……いつからだろう。歩調が合ったのは)
ティアはふと考え、気付く。
合ったわけではない。グレンシスが自分の歩調に合わせてくれていたのだ。
ティアの胸が、きゅっと締め付けられる。歩調が早くなる。グレンシスの背を見つめ、願う。
(どうか、ほんの少しだけでいいから振り向いてください)
あなたの心をほんの少しだけ、こちらに向けてくださいと。
ティアが必死に願い続けた結果、まるで祈りが届いたかのように、グレンシスの足がピタリと止まった。
振り返ったグレンシスの表情は、とても呆れていて……どことなく拗ねているようにも見える。
グレンシスはその表情のままティアの元に戻り、不機嫌そうに腕を組んだ。
「まったく、お前はつくづく甘えるのが苦手なようだな」
溜息と共に落とされたその言葉は、言うことを聞かない妹を窘めるような口調で、ティアの眉間に僅かに皺が寄った。
「……もしかして、わざとやったんですか?」
「ああ。そうだ」
あっさりとそう言ったグレンシスに、ティアは心の中で意地が悪いとへそを曲げた。
確かにグレンシスは、ティアに意地悪をしたし、呆れている。でも、突き放すつもりなんてこれっぽっちもなかった。
きちんと向き合うことを始めた今、グレンシスは気付いてしまったのだ。ティアがいつも何かに怯えていることに。
グレンシスは静かに膝をつくと、表情を真面目なものに変えて、目の前にいる不貞腐れた少女に向かって問うた。
「お前、これまでずっとそうしてきたのか?」
「え?」
主語の無い問いに、ティアはきょとんとする。
グレンシスの眉が僅かに跳ねた。けれど、感情を抑えるように軽く目を閉じる。
そしてもう一度、口を開いた。
「ティア、お前はこれまでずっと、嫌われるのが怖くて、自分のしたいことや、やって欲しいことを言わずにいたのか?と聞いているんだ」
ティアは無言でいた。答えられないのではない、答えたくないのだ。
心の奥を見透かすようなグレンシスの視線からそっと逃げれば、逸らした頬に手が伸びる。大きく暖かい手が。
びくりと身を強張らせたティアに、今度は真冬のスープのような温かい声音が降ってくる。
「それはやめた方がいい」
これまでずっと上から目線でしかものを言ってこなかったグレンシスとは思えないほど、優しい物言いだった。






