テラーノベル
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その日の稽古は、妙に静かな始まり方をした。
誰も大げさに期待を口にしない。モルリすら余計な煽りを控え、ホレは椅子の位置を整え、ミゲロは床のきしみを最後にもう一度確認している。ジャスパートは壁際で録音機をいじりながら、耳だけをこちらへ向けていた。
サベリオの前には、台本が開いている。
第一場。雨宿りの場面。橋の下に初めて立つ男の一言。
たった一行。
なのに、それが遠い。
「無理なら今日はやめる?」
ホレが小さく聞く。
サベリオは首を振った。無理だからやめる、を繰り返してきた時間が長すぎた。今日もそれをやったら、明日も同じ顔で入口に立つことになる。
デシアが台本を閉じずに言う。
「詰まってもいい。止まってもいい。今日はそこを見る日だから」
サベリオは息を吸う。
入口の外で、橋から落ちるしずくが規則正しく鳴っている。その音だけを数えるように、一度、二度、まぶたを閉じた。
そして口を開く。
「……雨、」
そこから先が出ない。
喉の奥に、古い錆びみたいなものがつっかえる。声というより、失敗した夜の空気が先に上がってきて、次の音を押し戻す。
サベリオは台本を握る手に力を入れた。
黙ったままではいられない。なのに声にしようとすると、体のどこかがまだ止めてくる。
長い沈黙が落ちる。
誰も急かさない。急かさないことが、逆に苦しい。
その時、ヌバーが唐突に合いの手を入れた。
「雨、なに? 雨、どうしたの? 相談乗ろうか?」
橋の下が一瞬ぽかんとしたあと、モルリが吹き出した。
「何それ!」
「いや、空気が沈みすぎると人って浮上できないかなと思って」
ヌバーは真面目な顔で言う。
ジャスパートが壁に頭を預けたまま笑う。
「雑だけど、今のは助かった」
サベリオも、張りつめていた呼吸が少しだけ崩れた。笑ってしまったせいで、喉の力が抜ける。
デシアがそれを見て、そっと頷く。
「もう一回。今の間、いい」
「今の、というのはヌバーの変な一言込みで?」
「違う。その前の、言えない時間」
デシアはまっすぐ答えた。
「橋の下に入ってきた人が、何を言うか迷ってるみたいで、すごくよかった」
サベリオは目を丸くする。
褒められたのは、失敗だと思った部分だった。
「だから、怖がらなくていい。止まっても、その時間ごと使える」
サベリオはまた台本へ視線を落とす。
失敗を隠すのではなく、そこに意味があると言われると、余計に逃げ場がなくなる。でも不思議と、さっきより苦しくない。
もう一度、口を開く。
「……雨、やみそうにないな」
今度は最後まで届いた。
大きくもきれいでもない。少しかすれていて、慎重で、まだ人前の声ではない。それでも確かに、その一行は橋の下の空気を動かした。
誰もすぐ拍手しなかった。
その代わり、デシアが小さく「うん」と言う。ミゲロが黙って頷く。ホレがペン先を走らせる。ヴィタノフが光を少しだけ顔へ寄せる。
その静かな反応の方が、拍手よりも深く届いた。
サベリオは、喉の奥に引っかかっていたものが、ほんの少しだけ削れた気がした。
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