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日本とシンガポールの時差は一時間。
食事を終えて椿が風呂に入っている間に、俺は倫太朗にメッセージを送っておいた。
『何時でもいいから電話してくれ』
泣き疲れたせいもあり、半ば強引に俺のベッドに連れて行くと、いつもの勢いもなく彼女は眠りについた。
だから、倫太朗からの着信にも気づかれずに済んだ。
俺は椿の言葉を倫太朗に伝え、客観的に見た事実を聞かせて欲しいと頼んだ。
ただ、父親と血縁関係にないかもしれないということは、省いた。
倫太朗が知っている確証はなかったから。
『子供の頃から入り浸ってたけど、じーちゃんとばーちゃんから息子のことも孫のことも聞いたことはなかったんです』と、倫太朗は抑揚なく話し始めた。
『だから、二人が孫を引き取ったって聞いてびっくりしたのはよく覚えてます。初対面だと言うだけあって、他人感半端なくて。けど、なによりも、俺にはめちゃくちゃ優しい二人が、椿ちゃんには厳しいっていうか緊張してるようなのが不思議で。椿ちゃんも、がっつり他人行儀だから、言葉遣いも敬語だし、何をするにも許可をもらってた。あの頃からずっと、気を張り詰めてたみたいです』
俺はウイスキーで唇を湿らせ、椿の眠る寝室に目を向けた。
万が一に彼女が起きてきたらと思うと、スマホはスピーカーにせずに耳に当てている。
『ばーちゃんが錯乱した時、俺も一緒にいたんですけど、本当に錯乱しているようだったんです。じーちゃんを呼んだり、高校の制服代がどうとか言ってたし』
「彼女を引き取った直後のことか」
『はい。椿ちゃんには話してないけど、その頃にじーちゃんとばーちゃんが椿ちゃんのことを話しているのを聞いたことがありました。お金がかかる年頃で大変だ、とか、今更孫だと言われても、とか。どっちかって言うと、ばーちゃんの方が文句を言ってたと思います。じーちゃんが椿ちゃんを引き取ると決めたらしくて、ばーちゃんの文句を黙って聞いていたはずです。けど、それは本当に初期の頃で。半年もした頃には、そんなことは一切聞かなくなりました』
「そうか……」
『ばーちゃんが錯乱した後、俺も看護師も医者も、記憶が混乱しただけで本心ではないって言ったんです。その時はわかったって、大丈夫だって言ったんですけど、そのすぐ後にばーちゃんが死んで、椿ちゃんは借金は自分が背負うって決めて。めちゃくちゃ働いて、あのボロアパートで節約生活してたんです。誰とも親しくならず、基本的には俺と会っても俺の生活の心配とかばっかりで。だけど、年に一度、ばーちゃんの命日だけは、記憶無くすほど飲んで、職場の愚痴とか言うんです』
年に一度だけ、墓参りでよみがえる過去のトラウマを忘れたくて、深酒をしてたのだろう。
『前にも言いましたけど、今年に限って愚痴じゃなくて彪さんの話ばかりしてました。墓参りの前から、落ち着かない様子だったし。墓参りの時も、いつも無言で無表情になるのに、今年はそれもなかった。だから、俺、嬉しかったんです。彪さんのお陰で椿ちゃんは過去を忘れられるんじゃないかって。だけど、椿ちゃんは全然はっきりしない態度だし、なんかもう……、見ててイライラしちゃって』
「だから、プロポーズしたのか?」
『聞きました? まぁ、保険があれば気持ちが楽かなと思ったのと、椿ちゃんさえよければ本当に名実ともに家族として生きていくのも有りかなと思いました』
「姉弟と夫婦じゃ、意味合いが違うだろう?」
『夫婦になっても、姉弟のような関係でいたらいいかなと。椿ちゃんのことは姉のように思ってるけど、全然、勃つと思うし』
あはは、と笑う倫太朗の声に重ねて、プシュッと缶を開ける音が聞こえた。
ゴクゴクッと何かを飲む喉の音が続く。
『彪さんに気持ちを伝えるのは、休日の公園で真っ裸になるより勇気がいるんだって』
「はぁ?」
『椿ちゃんは、目の前の幸せより、くるかわからない裏切られる日を恐れてるんだと思います』
グラスを口に運ぶと、カランッと氷がぶつかった。
「話はわかった。悪かったな、夜遅くに」
『いえ。椿ちゃんのこと、よろしくお願いします』
「ああ。……倫太朗――」
『――はい?』
「椿の前でおっ勃てるなよ」
クククッと含み笑いの後で、『俺、人の女には勃たないんですよ』と言って、電話が切れた。
ああいう可愛いキャラの男が、一番クセが強かったりするんだよな……。
俺は薄くなったウイスキーを飲み干し、立ち上がった。
静かに寝室のドアを開けると、彼女の寝息を確認する。
目が覚めて俺が一緒にいたのでは、また恐縮させてしまうだろうかと考える。だが、一人で俺のベッドを使っていたと知った椿が平謝りする姿が想像でき、だったらとドアを閉めた。
椿の背後に回り、そっとベッドの端に腰かける。
倫太朗は、椿が母親の連れ子だと言わなかった。
俺が言わなかったから、知らない前提だったのかもしれない。
だが、もしかすると、知らないのかもしれない。
だとしたら、椿はずっと、倫太朗にも言えずに苦しんでいたことになる。
『目の前の幸せより、くるかわからない裏切られる日を恐れてる』
倫太朗の言葉を思い出し、思わずため息が零れた。
結婚……なんだろうか。
結婚し、家族になることで、椿は安心するのだろうか。
椿とずっと一緒にいたいと思っている。
だが、そのカタチが結婚であることは、正解なのだろうか。
俺は、家族が絶対だとは思わない。
俺自身、血の繋がった母親に捨てられ、祖母に疎まれてきた。
家族を求める椿に、家族を信じない俺は相応しくないんじゃ……。
そもそも、『普通の家族』というものを、俺は知らない。
椿と二人のうちは、今のままでいいかもしれないが、彼女が子供を望んだらどうだろう。
休日に家族で動物園や水族館どころか、公園にすら行ったことはない。
せいぜい、無駄に広い庭を走り回るくらいだった。
担任との三者面談なんかは、家政婦が来た。
一通りの話を聞き、『保護者様にお伝えいたします』と言うだけ。
宿題を見てもらったこともないし、進路の相談をしたこともない。
唯一あるのは、怒られたこと。
幼稚園の頃は友達と喧嘩をして、小学校では忘れ物をして、中学校では成績が落ちて、怒られたことがある。
『この家にいる以上、私や是枝の名に恥じぬ行いをなさい!』
幼稚園児に言ってわかるわけねーのに。
思い出すと、笑える。
意味なんか分からなかったが、ただ、いつもキチッと着物を着て背筋を伸ばし、キツく髪を結い上げてつり上がった目で見下ろされるのが怖かった。
つーか、怒る時しか会わなかったしな。
顔も見たくないが、一言言ってやらなきゃ気が済まなかったのだろう。
久し振りに当時を思い出し、滅入った気を吐き出す。
静かにベッドに横になり、抱きしめる代わりに彼女の髪に触れた。
せめて彼女が求めてくれたら……。
そんなことを思いながら、目を閉じた。