テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
城内の混乱は、一時間もしないうちに広がった。
「さっき誰に報告した?」
「この書類、俺が書いたのか?」
「朝からここにいたはずなのに、昼のことが思い出せない」
記録室へ集まった兵士や使用人たちは、自分の筆跡や持ち物を手掛かりに、失った数時間を確かめ合っていた。
レーネは机の前へ大きな紙を貼った。
《今から行動を記録すること》
《時刻・場所・同行者を書くこと》
《一人で移動しないこと》
「記憶が抜けても、記録が残れば戻れる」
彼女自身も数分前の会話を忘れることがある。
それでも、書いた文字を見れば次に何をするべきか判断できた。
シュエルも植物図鑑の余白へ時刻を書き込んだ。
午後五時四十分。
中枢で記憶硝子が破損。
直近記憶の想起障害が城内で発生。
「シュエル」
呼ばれて振り返る。
サンタナが立っていた。
「肩、大丈夫か?」
「はい。さっきも聞かれました」
「……聞いたか?」
彼の表情が固まった。
「十分くらい前に」
サンタナは額へ手を当てる。
「悪い。そこ、抜けてる」
シュエルの胸が冷えた。
ついに彼にも始まった。
「私のことは分かりますか?」
「それは分かる」
即答だった。
「シュエル。植物馬鹿で、頑固で、地下へ行くなって言っても聞かなかった」
「最後の一つは今後訂正してください」
「それを聞くと安心する」
彼は笑った。
だが、その笑みはすぐ消えた。
「……今日、地下へ行く前、俺たち何か話したか?」
地下へ向かう前の衝突。
中枢へ落ちたあと、サンタナが救助に来たこと。
ついさっきまでつながっていた記憶の一部が、もう曖昧になっている。
「あとで全部話します」
「あとで、覚えていられればいいけどな」
冗談めかした声が、痛かった。
*
日没が近づき、黄昏の映画館へ光を送る採光路が淡い橙色に染まり始めていた。
「完全停止の手順は、中枢の記録にはない」
イアクは封鎖された黄昏の映画館の前で言った。
記憶流出が始まったことで、王都の保全命令より人命が優先された。トレヴァーは映画館に限って封印を一時解除し、警備兵を配置していた。
「八年前の最後の会議記録にある?」
レーネが尋ねる。
「ある。欠番六四――誓約会議の正規記録に残ってる。けれど、その記憶硝子は八年前の封印処置でひびが入り、割れかけてる」
シュエルはレーネを見る。
「六四……最初に探していた欠番」
「ええ。あなたのお母さまが作ったのは、この正規記録とは別の台帳外複製。庭で拾った破片は複製側よ」
イアクは保管箱を開いた。
中には、《監査用記憶硝子 六四》と記された札と、蜘蛛の巣のような亀裂が走る一枚の硝子板が収められていた。
「普通に再生したら?」
「映像の時間が崩れる。数秒ずつ前後して、言葉がつながらない」
「直せないんですか?」
シュエルの問いに、イアクは首を横に振る。
「直すんじゃない。時間を固定する」
「どうやって?」
「二人が同じ出来事を、それぞれ同じ順番で覚えている記憶を使う」
イアクは投影器の両側にある銀色の端子を示した。
「一致した共有記憶を照合鍵にして、二人同時に接続する。二人の記憶が一致するところを基準にすれば、壊れた硝子の時間軸を固定できる」
サンタナが眉を寄せた。
「代償は?」
「暴走していなければ、疲れる程度だった」
イアクは少し間を置いた。
「今は違う。城が記憶を吸ってる。照合鍵に使った場面は固定材として回路へ持っていかれる可能性がある」
「つまり?」
「その出来事だけ、二人とも忘れるかもしれない」
沈黙が落ちた。
シュエルはサンタナを見る。
二人が同じ場面を細部まで覚えている記憶。
旧温室へ向かった道中。
警備宿舎で雨宿りした夜。
二人で中枢を調べた時間。
「雨の日」
サンタナが先に言った。
シュエルも、同じ場面を思い浮かべていた。
警備宿舎。
暖炉。
借りた白いシャツ。
「あなたが八年前のことを話してくれた夜」
「お前が、『失敗したことより次にどうするかを見る』って言った」
細部まで一致している。
だからこそ、失いたくない。
シュエルの胸が締めつけられた。
「別の記憶にしますか?」
聞くと、サンタナは首を振った。
「曖昧なものを使って失敗するほうが怖い」
「でも、あの夜を忘れるかもしれません」
「ああ」
サンタナはしばらく黙ってから、シュエルの前へ立った。
「だから、忘れる前に言う」
「何を?」
「好きだ」
シュエルは息を止めた。
「最初は危なっかしくて止めたいだけだった。でも違った。お前が自分で考えて、間違えたら認めて、それでも進むのを見てるうちに――そばにいたいと思った」
彼の声は震えていなかった。
「雨の日を忘れても、今ここで言ったことまで嘘にはならない」
シュエルの目の奥が熱くなる。
「私も、好きです」
「……本当に?」
「こんなときに確認し直さないでください」
「いや、そこは大事だろ」
思わず二人とも笑った。
その笑い声だけで、恐怖が少し遠のいた。
シュエルは彼の手を取る。
「忘れたら、また言います」
「俺も」
*
二人は投影器の左右へ座った。
イアクが銀色の端子をそれぞれの手首へ固定する。
「雨宿りの夜を、最初から同じ順番で思い出して」
濡れた服。
大きな白いシャツ。
暖炉。
サンタナの告白ではない、過去の失敗の告白。
そして――次にどうするかを見たい、という言葉。
「接続する」
硝子板に光が走った。
頭の奥が強く引かれる。
雨宿りの夜の記憶が、自分の中から投影器の回路へ細い糸で結ばれていくような感覚がした。
白い投影壁が揺れ、崩れ、やがて一つの映像へ固定された。
八年前。
円卓の前に、シュエルの母が立っている。
彼女は正面を見て、はっきりと言った。
『これを見ているなら、三度目が来たのね』
シュエルは息を呑む。
母は続けた。
『城を止めるだけでは足りない』
コメント
1件
みぅです🤍🥀 第10話、読み終わりました…。 「忘れる前に言うこと」、タイトルがもう切なくて。サンタナが覚えてるうちに「好きだ」って伝えたシーン、すごく良かったです。あの夜を忘れるかもしれないって分かってて、それでも「今ここで言ったことまで嘘にはならない」って言葉が刺さりました。シュエルの「忘れたらまた言います」も、同じくらい強くて。お互いに覚えてなくても、また伝え合えるって信じられるの、素敵だなって思いました。 記憶が壊れていく世界で、二人の感情だけはちゃんと残ってほしいです。続き、静かに待ってますね🌙
宙
133
宙
62
きゆう
39
え ー た ん !
5,148