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――――夜の帳が下りる頃。 古びた建物の駐車場に、1台の車が停車する。
早坂が運転する車だ。 一緒に退勤した後は、飲みに行かなければマンションまで送り届けてくれる。
……街灯がぼんやりと辺りを照らす。
そこは私が住む賃貸マンション。
そして今夜、青木さんが話し合いの為に部屋に来てくれる予定――――だけど。
遥
私が重いため息をつけば、後部座席からも、悩ましげなため息を漏らす人物がひとり。
かなえ
かなえ
かなえ
私のため息と、かなえちゃんの気落ちした声が、虚しく交差している車内。 まるでお通夜状態だ。
彼女の中では、私と早坂がくっつく未来予想図が出来上がっていたみたいだけど。 私には既に別の恋人がいた、その事実に打ちのめされて落ち込んでいるみたいだった。
◇
事務所での一件の後。 彼女にはあらかた、事情を説明しておいた。
とはいえ、かなりザックリと。
他人の不倫の内情なんて、かなえちゃんは本来知らなくてもいい事だ。
遥
これから社会に出て、様々な学びを得るだろう女の子に、泥沼化した大人男女の事情を話すなんて気が引ける。
早坂
遥
遥
遥
時間はもうすぐ18時。
そろそろ彼から連絡が来るかもしれないと思い、ちらりとスマホをチェックしてみる。
が、まだ通知は来ていない。
早坂
早坂
遥
早坂
遥
早坂
かなえ
2人の発言が見事にハモる。 息ピッタリ。
早坂
早坂
早坂
早坂
遥
遥
さすがに心配性が過ぎる。
と思ったけど、早坂は私の身を案じて言ってくれてるんだ。 だから口には出さないでおいた。
遥
ふうっと大きく息を吐く。
よし、と気合を入れてから、勢いよく助手席から降りた。
ドアを閉め、車内の2人に向き直る。
遥
早坂
遥
お行儀よく返事を返し、彼らに背を向ける。 急ぎ足でマンションへ向かった。
◇
――――寒風が刺すように痛い。
まるで氷の鞭のよう。
冷たい風から身を守るように肩をすぼめて、1階にあるエレベーターのボタンを押す。
点滅する表示盤を眺めていた時、ふと、早坂の言葉が脳裏をよぎった。
"連絡がしつこいって言ってたじゃん"
"相手ももう 余裕がないって事なんじゃないのか"
"切羽詰まった人間ほど、 何をするかわからないだろ――――"
遥
男女間のトラブルは危険も多いと聞く。 交際のもつれが、事件に発展する例だって増えている。
早坂がやたらと『2人きりになるな』と口にするのも、その危険を踏まえての忠告だという意見もわかるけど。
遥
遥
もう一度スマホをチェックする。 青木さんからの連絡はない。
仕方なくLINEのトーク画面を開いて、早坂にメッセージを打ち込んだ。
遥
遥
遥
仕事外のことなのに、早坂に心配ばかりさせてることに申し訳なさを感じつつ。 私はコートのポケットに、スマホをそのまま仕舞い込んだ。
◇
◇
◇
この日の夜。
何の危機感も抱かず、1人で部屋に帰ってきてしまったことを――――
私は一生、後悔することになる。
遥
人気のない共用廊下に、自分の声が反響する。
バッグから取り出した鍵を鍵穴に挿し込んだ時、ありえない異変に気付いた。
遥
部屋の鍵が、開いてる。
遥
今朝のことを思い起こす。
早朝に目が覚めたら、早坂が帰る準備をしていて。 寝惚け眼をこすりながら、帰宅する彼の背中を見送った。
その際に、鍵を締めたのは覚えてる。
早坂が帰った後は朝風呂に入って。 朝食を作って、メイクをして。 一連の行動を、ひとつひとつ思い起こしてみる。
そして、部屋を出た時に施錠した。
ちゃんと確認もした。
やっぱり、閉め忘れてなんかいない。
なのにドアは開いている。
遥
どうしようと迷ったのは一瞬のこと。 ドアノブを慎重に捻り、ゆっくりと開けてみた。
ギィー……と不快な軋み音が、余計に恐怖心を駆り立てる。
遥
数センチ開けたドアの隙間から覗いても、深い闇夜に包まれた空間が広がっているだけ。 室内はシンと静まり返っている。
当然だ、1人暮らしなんだから。 私以外の誰かがいるはずがない。
◇
このマンションは築何十年と経つ古い建物だ。オートロックも付いていない。 監視カメラすら設置されていない、防犯性の低い物件だ。
それに合鍵も作っていない。 賃貸マンションの決まり事で、鍵の複製は禁止されているから。
だから私以外、誰も入室もできないはず。
なら、この状況は何だろう。 施錠したはずの鍵が開いている事態に、背筋がゾクリと冷えた。
遥
弱々しい私の呼び掛けに応じる声はない。
でも、感じた。 微かに動く、人の気配。
間違いなく、この部屋の中に誰かがいる。
遥
遥
もしかしたら空き巣犯かもしれない――――
その可能性を考えて、そっとこの場から立ち去ろうとした時。 駐車場の街灯の光が、玄関を照らした。
遥
煌々と射す光の先。 そこにあったのは私の物ではない、男性用の靴。
それが見覚えのある物だと気づいた瞬間、強張っていた体から力が抜けた。
ここで安堵を覚えるのは間違いかもしれないけれど、部屋に潜んでいた人物が私の知らない誰かよりはマシだ。
……にしても。
この人、どうやって私の部屋に入ったんだろう……?
遥
遥
誰かさえわかれば怖いものはない。
ズカズカと部屋に入り、電気をつける。
パッと室内を照らす照明は、暗がりで見えていなかった人物の姿を曝け出した。
青木
青木
ベッドに背を預け、悠長にスマホをいじっている人物―――― 青木さんが私の気配に気づき、ゆったりと微笑む。
出会った頃と何も変わってない柔和な笑顔。 ……半年前まで好きだった人。
もう、過去形だ。
遥
青木
遥
青木
青木
青木
遥
遥
私の問いに青木さんは答えない。
ゆったりと微笑むだけで何も言わない。
この人はいつもこうだ。 都合の悪いことは沈黙でやり過ごそうとする。真摯に向き合ってくれない。
だから、いつまで経っても別れ話に決着がつかないままだ。
遥
"仕事が終わったら連絡して"
そう伝えていたはずなのに。 私の伝言が無駄になってしまった。
青木
青木
青木
遥
つい嫌味を言ってしまう。 それでも彼の表情は変わらない。
遥
遥
青木
遥
遥
青木
遥
青木
取りつく島もない私の様子に、青木さんは小さくため息をついた。
青木
遥
青木
遥
青木
青木
青木
本気で言ってるんだろうか。 全く理解できない。
遥
青木
遥
遥
遥
青木
遥
青木
青木
遥
頭が痛くなってきた。 まるで、言葉が通じない動物と話してる気分。
私が何に対して怒っているのか、彼は全く理解できていないらしい。
遥
遥
そんなわけがない。
既婚者だから怒ってるんじゃない、彼の不誠実さと裏切りに対して腹を立てているんだ。
離婚云々は知らない。 関係ない。
既婚者の癖に外に恋人を作る行為は、奥さんに対する最大の裏切りだ。
恋人の私にも、既婚者である事実を隠してきた。
4年も、だ。 4年も騙され続けていた。 これを不誠実と言わずに何と言うのか。
そこまでの事をされて、それでも彼と一緒にいたいなんて私には思えない。
遥
遥
青木
遥
遥
青木
遥
遥
これが本当に最後。 そう言わんばかりに説得を試みる。
それでも青木さんは動じない。
穏やかな眼差しで私を見つめているだけで、別れ話をしている男女の雰囲気とはほぼ遠い。
ここまで表情が変わらないと逆に怖い。
彼の瞳に浮かぶ感情が何なのか、私には読み取ることもできなかった。
青木
遥
青木
目を閉じて、彼は短く息を吐いた。
顔には諦めの表情が染みついている。
やっと納得してくれた、 そう安堵した私の身体は、次の瞬間―――― 青木さんに抱きすくめられていた。
遥
驚きで目を見張る。
瞬きをすることも忘れて、私を腕の中に閉じ込める彼を呆然と見上げた。
遥
遥
青木
陶酔したような声が落ちる。
私の髪に指を絡め、顔を埋めてくる彼の仕草にゾッとした。
身の毛がよだつほどの嫌悪感が、身体中を駆け巡る。
遥
必死にもがけば、その勢いに押されて彼の体が離れた。
――――……どうしてわかってくれないの。 どうして、こんなに。
遥
遥
青木
青木
青木
青木
遥
青木
遥
遥
ショックで視界が黒く染まる。
私の存在価値を軽んじてる発言に、腸が煮え繰り返る程の憤りを感じた。
この人が抱いている恋人の認識と、私が抱いている恋人の認識が全く違う。
ちゃんと話し合おう、なんて無理だったんだ。見ている方向が全然違うんだから。
遥
乾いた笑いが、喉の奥から溢れ落ちた。
遥
青木
遥
遥
遥
嗚咽まで漏れる。 悔しくて悔しくて、涙が滲んだ。
――――ねえ、早坂。聞いた?
この人、奥さんがいても私を恋人扱いしてくれるらしいよ。
遥
遥
遥
私達が過ごした4年間って、この人にとって一体何だったんだろう。
青木さんから連絡が来る度に嬉しくなって、舞い上がっていたのは私だけだったなんて、なんともお粗末すぎる話だ。
……恋人だと思っていたのは私だけ。
彼にとって、私は恋人"ごっこ"の相手。
ちょっと恋人扱いすればしっぽを振って喜んでくれる、まるで彼のペット扱いだった私。
遥
遥
本当に大好きだったのに。
彼との将来を夢見ていた、過去の自分を呪った。 同時に憎しみも湧く。
遥
怒りに任せて口走ってしまった直後、
――――パンッ!
その瞬間、顔に響いた破裂音。
物理的な衝撃を受けて、体が真横に吹き飛んだ。
テーブルの脚に躓いて倒れ込む。 ガツッ、とこめかみに嫌な衝撃が伝わった。
テーブルの角に頭をぶつけたと悟った瞬間、身に起こった事態を把握する。
遥
わたし今、頬をぶたれた。 青木さんに殴られた。
青木
頭上から落胆の声が落ちる。
凄みすら感じる低音。
ゆるりと顔を上げた私の瞳に映ったのは、こんな時でも穏やかに微笑んで私を見下ろす、青木さんの姿。
青木
けれどその声は、
背筋が冷える程に温度がなかった。
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扱いってひど…
第5話「失望」、読み終えました…タイトル通り、もう本当に胸が痛い回でした。青木さんの「恋人扱いしてる」発言で、七瀬さんの4年間が全部「ごっこ」にされてしまった感覚、ゾッとしました。早坂さんが心配してた2人きりの危険が現実になっちゃって…最後の平手からの「大事にしてた」の温度差が一番怖かったです。七瀬さん、無事でいてほしい…!次話が気になります。作者さん、重くて切ない描写が本当に巧みですね。