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不安と疑念の入り交じる思いで隣を見やる。
残り僅かなコーヒーを飲み干して、早坂は静かにカップを置いた。
そして、伏せていた瞼をゆっくりと押し上げる。
――私と青木さんが会話をしている間、早坂はずっと沈黙を貫いていた。
最初は青木さんと2人で話したい、そう告げた私の言葉通り、ずっと成り行きを見守ってくれていた。
その早坂が言葉を発したということは、私達の話し合いが完全に決裂したと、彼自身もそう判断したということだ。
遥
早坂
早坂
早坂
早坂が訊き返す。
でも青木さんは何も答えない。
肯定も否定もせず、早坂を見据えるだけ。
重苦しい空気だけがこの場に漂っている。
遥
遥
困惑に満ちた表情を浮かべていると、早坂は私に、意味深な視線を送ってきた。
そして、ある人物の名を口に出す。
早坂
遥
思わず目を丸くする。
何度もテレビで耳にした名前だ。
先日の総選挙を経て、農林水産副大臣に任命された大物政治家のひとり。
連日の報道で、さすがに知ってはいるけれど。
遥
早坂
早坂
遥
突拍子もない声を上げてしまった。
それぐらいの衝撃だった。
青木新一といえば、祖父が昔、総理大臣をやっていたはずだ。
つまりこの人は、政界のサラブレッド。
でも、本人からそんな話は聞いたことがない。
彼自身も何も教えてくれなかった。
青木という名前自体も珍しくはないし、苗字が被っているだけで、まさか政治家の親族だなんて考えにも至らない。
遥
遥
早坂
冷たく言い放つ早坂の口調は刺々しい。
何の話かと、私が首を傾げていると。
早坂
早坂
遥
彼が政治家の息子だった、 そんな驚きの事実すら霞んでしまう程の衝撃を受けた。
早坂
早坂
早坂
遥
早坂
早坂
早坂
遥
あんまりな内容に言葉を失う。
そんな茶番は創作の中だけの設定だと思っていたのに、実際に起きた話だったなんて驚きだ。
もしその話が本当なら、この国はもう終わってる。
この人も、青木新一も、そして警察組織も。 正義も悪もあったもんじゃない。
民事に訴えても無駄だと言った、その自信の根拠がそんなふざけた理由なら、今すぐその自信を棄てて自分を恥じた方がいい。 堂々とものを言える立場じゃないだろう。
蔑むような目で青木さんを見てしまう。
けれど本人は意に介さない態度だ。
早坂の言葉を鼻で笑い、優雅に足を組み直す。
青木
早坂
青木
青木
青木
青木
早坂の発言に青木さんは嘲る。
早坂が事実を捏造している、そう言いたいんだろうけど。
でも、私にはそうは思えない。
青木さんが白を切っているようにしか見えない。
青木
青木
青木
青木
その言い草に、カッと頭に血が上る。
早坂はそんな人じゃない。 人を陥れるような、そんな悪質な人間じゃない。
早坂のことなんて何も知らないくせに、そんな風に罵るなんて許せない。
咄嗟に歯向かおうとした私を、でも早坂は手で制した。
早坂
青木
早坂
早坂
早坂
早坂
早坂の言う通りだ。
被害者が生きている限り罪は残る。
権力で事件を揉み消すことはできても、関わった人達の思いや心の傷までは消せない。
早坂
早坂
早坂
早坂
あっさりと論破されて、青木さんは唇を噛む。
その表情を見れば、どちらが嘘をついているかなんて一目瞭然だ。
遥
私と同じような被害に遭った女性が、他にもまだいるなんて。
しかも親が金を積んで、解決している有様だ。
これが国民の上に立つ人間のすることなのか。
怒りを通り越して呆れる他ない。
理不尽な暴力に声を上げたところで、強大な権力を前に泣き寝入りせざるを得なかった人達のことを思うと、胸がぎゅっと締め付けられる思いだった。
遥
青木
遥
青木
青木
遥
思い詰めたような表情で青木さんは答えるけれど。
何だろう――何故か、釈然としなかった。
もし青木さんが有名人の息子だと知らされても、私は身を引かなかったし、気にも止めなかったと思う。
身分違いの恋なんて珍しい話でもないし、何より離れる理由にはならない。私にとっては。
だから、彼の言い分に違和感を覚えた。
青木さんが自分の素性を黙っていたのは、本当に、身分の違いを気にしたから、なんだろうか。
……彼の身勝手さや、横暴さ。
それらを知る度に、不信感が強まっていく。
早坂
確信めいた口調で、早坂は静かに問い詰める。
青木さんの眉がピクリと吊り上がった。
青木
早坂
早坂
早坂
遥
――他にも知られたくない、こと。
嫌な予感がさざ波のように、私の胸に押し寄せる。
この人はまだ、私に隠し事があるらしい。
早坂
遥
早坂
早坂
早坂
遥
じゃあ、この人は次男の方なのかと。
そう納得できてしまうのが、なんだか悲しい。
早坂
早坂
早坂
遥
早坂
早坂
早坂
早坂
遥
ドクンッと心臓が嫌な音を立てた。
聞き間違いかと思った。
だって青木さんが2年前に結婚したのなら――
私と交際中に、その人と結婚したことになる。
遥
早坂
遥
早坂
早坂
早坂
遥
一気に血の気が引いていく。
早坂が明かした彼の秘密は、私を再び奈落の底に突き落とすには十分すぎるほどの衝撃だった。
そうだ、私は最初から勘違いをしていたんだ。
実は結婚している、8歳の子供がいる。 青木さんがそう言ったから、彼の結婚歴は長いのだと思い込んでいた。
でも違った。
この人は私と交際中に、他の女と結婚した。
早坂が令嬢と敬って言うあたり、相手も青木さんと並ぶほどの高貴な方なんだろう。
遥
青木
青木さんは否定もしなければ反論もしない。
その沈黙こそが肯定の証。
その時、私の心に湧いたのは、彼に対する純粋な怒りだった。
結婚を否定しておきながら、自分はちゃっかり結婚してやることやってるじゃないか。
赤ちゃんも奥さんも放置して、他の女の元へ足繁く通うこの人の気がしれない――
……そう思った時。
ふと思い至った新たな事実に、私は頭から冷水を浴びたかのように震え上がった。
青木さんが結婚したのが2年前。
子供が1歳なら、奥さんの妊娠も2年前。
結婚と同時期に妊娠したのか、その前に身ごもったのか―― なんて、問題はそこじゃない。
私と青木さんが交際を始めたのは4年前だ。
彼が奥さんと結婚するよりも早かった。
身体の関係も持っていた。
彼が部屋を訪ねてきた日は、いつも彼の手に抱かれてきた。
それが深夜だろうと早朝だろうと……関係なく。
遥
遥
青木
遥
青木
冷えた声色が耳を打つ。
妊活、という慣れない言葉に胸がゾワッとした。
苛立ちを含ませた瞳を、彼は私に投げかける。
青木
青木
青木
青木
遥
青木
青木
遥
青木
遥
青木
遥
妊活中、だったんだ。
早朝に会いに来てくれた際に、身体を求めてくれたのは――
奥さんを抱いた後、だったんだ。
そう察した時、背筋が凍った。
妊活していたなら、彼らは避妊もしていないはず。
だとしたら、私は間接的に、彼の奥さんと粘膜で触れ合っていたことになる――
遥
急激に込み上げてきた嘔吐感。
咄嗟に口を塞ぐ。
早坂
遥
早坂の心配そうな声が聞こえてきて、なんとか平静を装おうとしたけど駄目だった。
堰き止めていたはずのものが、ぽたりと手の甲に滴り落ちてしまったから。
遥
――心底、そう思った。
他の女に触れた手で、唇で。 他の女が濡らした指先で、私にも触れていた。
何食わぬ顔でそれが出来るこの人は、一体どんな神経を持ち合わせているんだろう。
遥
もう嫌だ。
怒りが収まらない。
この人を視界に入れるのも、今は辛い。
いっそのこと、この場から逃げ出してしまいたかった。
でもそれは出来ない。
まだ話が終わってない。
青木さんから何の承諾も得ていない。
この人の口から「別れる」という言葉を聞かなければ、私達はまた同じことを繰り返すことになる。
遥
遥
ちゃんと頭ではわかってる。
なのに心が、底知れぬ絶望と悲しみで悲鳴を上げている。
どうして私ばかり、こんなに我慢しなきゃいけないんだろう……。
早坂
……早坂の声だった。
私の心情を代弁したような、静かな一言だった。
涙で濡れた瞳を隣に向ける。
早坂は少し俯き気味で、その横顔からは、何の感情も読み取れなくて不安が募る。
救いを求めるように見つめていると、彼は静かに立ち上がった。
ギィ……、と古ぼけた椅子の脚が床に擦れる。
その耳障りな音に、心が掻きむしられるような焦燥感が私を襲った。
遥
震える唇が弱々しく呼び止める。
今、この場に青木さんと2人きりにされるなんて無理だ。心が耐えられない。
早坂に側にいてほしくて、離れてほしくなくて、縋るような眼差しを彼に向ける。
そんな私の願いが通じたのか、振り向いてくれた早坂と目が合った。
――優しさが滲んだ瞳。
急に呼吸が楽になったような気がして、強張っていた心が解かされていく。
あからさまにホッとしている私の鼻を、しなやかな指がむぎゅっ、と無遠慮に摘まんだ。
遥
早坂
苦笑混じりで茶化す早坂の顔は、今まで見てきたどの笑顔よりも、優しく見えた。
「頑張ったな」って。 そう言ってくれた気がして。
早坂
遥
早坂
早坂は多くのことを語らない。
それだけ言い残して席から離れてしまった。
一歩一歩、私との距離が開いていく。
そして青木さんとすれ違う寸前、早坂は彼の肩に手を置いた。
早坂
早坂が軽く顎をしゃくる。
その先にあるのは喫茶店のドア。
青木さんと一緒に外へ出るつもりらしい。
予想していなかった展開に、私はただただ困惑していた。
この人と2人きりになって、早坂は大丈夫なんだろうか。
止めるべきなのかもしれない。
でも、「ついてこい」と誘い出す早坂の声も、瞳もすごく冷ややかで。
拒むことは許さないと言いたげな凄みを感じて、私までつい黙ってしまった。
それは青木さんも同様で、早坂の気迫に一瞬たじろいでいたけれど。
やがて彼も席を立ち、早坂を追う形でこの場を去ってしまった。
……私に言葉を掛けることもなく。
目が合うこともなかった。
遥
チリン、と遠くでドアチャイムが鳴る。
ひとり残された席で、私はただ項垂れだ。
涙を拭うことも忘れて、テーブルに視線を落とすことしかできなかった。
コメント
2件
読み終えました……。青木さんが既婚者で、しかも交際中に別の女性と結婚していたなんて。しかも妊活の話とか、もう胸が締め付けられるというか、吐き気がする気持ち、すごくわかります。でもそんな中で早坂さんの「頑張ったな」って言ってるような優しい仕草が、救いでした。次が気になります。