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赤いランドセルの名札には、
水城
と書かれていた。
相原奈緒の娘。
なのに、水城。
私と同じ名字。
「これ、どういうことですか」
私は写真を榊原美佐子へ向けた。
榊原は答えなかった。
その沈黙だけで十分だった。
「知ってたんですね」
「……少しだけ」
「少しって何ですか」
「奈緒さんの娘が、水城という名字を使っていたこと」
「どうして?」
「分からない」
私は笑いそうになった。
もちろん、面白いからではない。
もう何度この言葉を聞いたのか。
分からない。
知らない。
言えない。
十五年間、全員が同じ言葉で逃げ続けている。
「じゃあ、これは知ってますか」
私はA-07への振込記録を示した。
「毎月二十八万円。会社から奈緒さんの娘に払われていた」
榊原が目を伏せる。
「知ってた」
「何のお金ですか」
「知らない」
「また?」
「本当に知らないの」
私は机を叩きそうになる手を抑えた。
そのとき真壁刑事が言った。
「会社からの送金だけではありません」
全員が彼を見る。
真壁は新しい資料を置いた。
銀行の取引履歴。
「相原さんの死後も、同じ金額が動いています」
「娘さんに?」
「違います」
指で口座名義を示す。
水城千佳。
母だった。
「……母?」
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杯雪乃
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私は紙を取った。
六月二十五日。
二十八万円。
七月二十五日。
二十八万円。
八月二十五日。
二十八万円。
毎月。
同じ金額。
「誰から?」
真壁が答える。
「榊原美佐子さん」
私は榊原を見た。
「あなた?」
榊原は両手を組んだ。
「はい」
「母に毎月二十八万円払ってたんですか」
「最初の一年だけ」
「どうして」
答えない。
「口止め料?」
「違う」
「じゃあ何ですか」
「千佳に頼まれたの」
「母から?」
「そう」
「何のために」
榊原は苦しそうに息を吐いた。
「女の子を育てるため」
私は動きを止めた。
「奈緒さんの娘?」
「そう」
真壁が訊く。
「なぜ水城千佳さんが養育費を?」
榊原は写真を見る。
「奈緒さんが死んだあと、あの子は施設からいなくなったでしょう」
「誰かに引き取られた」
「千佳よ」
私は息を止めた。
「母が?」
「正式な手続きじゃない」
「それ、誘拐じゃないですか」
「だから誰にも言えなかった」
「七歳の子どもを勝手に?」
「千佳は守るためだって言ってた」
「誰から?」
「分からない」
私はもう耐えられなかった。
「守る守るって、母は何からみんなを守ってたんですか!」
部屋に声が響いた。
榊原が顔を上げる。
「死亡通知を送っていた人」
静かだった。
「母は、その人が誰か知ってたんですか」
「たぶん」
「名前は?」
「聞いてない」
「七人の中にいる?」
榊原は答えなかった。
真壁が取引履歴をめくる。
「榊原さん。この送金は一年で終わっています」
「はい」
「その後は?」
榊原は唇を噛んだ。
「現金で渡した」
「いくら」
「月によって違う」
「総額は?」
「覚えてない」
真壁の目が厳しくなる。
「少なくとも数百万円になりますね」
「……」
「なぜそこまで?」
榊原が突然泣き始めた。
「私のせいだから」
「何がです」
「あの子が一人になったの」
私は黙った。
「奈緒さんが死んだ夜」
榊原は涙を拭わず続けた。
「私、電話をもらってた」
「奈緒さんから?」
「うん」
「何て?」
「娘を迎えに行ってって」
私は写真を見る。
七歳の少女。
「行かなかったんですか」
榊原は首を振った。
「怖かった」
「何が」
「死亡通知」
声が震える。
「私に届いてたから」
十五年前。
榊原は最初の死亡通知を受け取っていた。
死因、溺死。
三日後。
「家から出たら死ぬと思った」
「だから奈緒さんの娘を迎えに行かなかった」
「そう」
榊原は顔を覆った。
「翌朝、奈緒さんが死んだって知った」
「それで?」
「施設に電話した」
「娘さんは?」
「もういなかった」
「母が連れていった?」
「後で千佳から連絡があった」
「何て」
榊原は母の声を思い出すように目を閉じた。
「『私が育てる』って」
私は息を止めた。
「でも私は十四歳でした」
「分かってる」
「母が別の七歳の女の子を育ててたなんて、知らない」
「一緒には住んでない」
「じゃあどこに?」
「別の場所」
「どこですか」
「知らない」
また。
でも今回は、本当に知らない顔をしていた。
真壁が訊く。
「水城千佳さんが養育していた証拠は?」
榊原は少し迷い、
「ある」
と言った。
バッグから古い封筒を出した。
中には領収書が何十枚も入っていた。
食費。
衣服。
学用品。
医療費。
塾代。
そのほとんどが母の名前で支払われている。
一番古い領収書。
十五年前。
児童用冬物衣料 二万三千八百円。
七歳の少女のため。
その下に、
母の字。
美佐子より受領。
私は領収書をめくった。
同じ言葉が何度もある。
美佐子より受領。
美佐子より受領。
美佐子より受領。
母は確かに、
榊原から金を受け取っていた。
「これじゃ……」
言葉が出ない。
第三者が見れば、
母が七人を脅して金を取っていたようにも見える。
真壁も同じことを考えたらしい。
「他の人からも受け取っていた可能性がありますね」
榊原の顔が強張った。
私は聞き逃さなかった。
「ありますね?」
「……」
「誰ですか」
「高瀬さん」
やっぱり。
「いくら」
「分からない」
「父は?」
榊原は黙った。
答えだった。
「父も母に払ってた?」
「はい」
「柿崎先生は?」
「払ってた」
私は椅子に座った。
七人。
死亡通知。
母。
金。
「母が七人を脅していたように見えますね」
私は真壁を見た。
真壁は否定しなかった。
「捜査上は、その可能性も考えます」
「違う!」
榊原が叫んだ。
「千佳は金が欲しかったんじゃない」
「なら何のためです」
「全部、あの子のため」
「その子はいったい誰なんですか!」
榊原は口を閉じた。
私は写真を指した。
「なぜ水城姓なんです」
「……」
「なぜ母が育てたんです」
「……」
「なぜ父も金を払ったんです」
榊原の目が揺れた。
その瞬間、
私は気づいた。
「父親は雅彦じゃないって言いましたよね」
「違う」
「本当に?」
「違う!」
強すぎる否定。
真壁も気づいた。
「では、水城姓になった理由を説明してください」
榊原は下を向いた。
長い沈黙。
やがて、
「名字を変えたのは千佳」
と答えた。
「どうやって?」
「分からない」
「何のために」
「隠すため」
「何から?」
榊原が私を見る。
「本当の名前から」
意味が分からない。
「本当の名前?」
「奈緒さんの娘は、相原姓じゃない」
「じゃあ何ですか」
榊原は首を振った。
「知らない」
「でも母は知っていた?」
「知ってた」
「だから水城にした?」
「そう」
「その子の本当の名前を消すために?」
榊原は頷いた。
私は写真を見る。
赤いランドセル。
水城と書かれた名札。
十五年前。
母は、
出生届のない少女を、
水城という名前に変えた。
そして七人から金を集め、
秘密裏に育てた。
「今、その人は二十二歳」
私が言った。
「さっき電話してきた女性が、その子なら」
真壁が頷く。
「そう考えるのが自然です」
「だったら探せます」
「何を手掛かりに?」
私は領収書を見る。
塾代。
医療費。
学用品。
母が金を払っていたなら、
記録が残っている。
「母の口座です」
私は言った。
「母が最近まで彼女に金を払っていたなら、振込先が分かるかもしれない」
真壁と佐伯が顔を見合わせた。
そのとき。
榊原が小さく言った。
「最近までじゃない」
「え?」
「千佳はもう、その子にお金を払ってなかった」
「いつまで?」
「十二年前まで」
「どうして止めたんです」
榊原の唇が震える。
「いなくなったから」
「また?」
「今度は施設からじゃない」
「じゃあどこから」
榊原が言った。
「千佳のところから」
私は息を止めた。
「十二年前に、その子が消えた」
十二年前。
私が母の家を出た年。
父も家を出た年。
偶然とは思えない。
「その日」
榊原は続けた。
「千佳から電話があった」
「何て?」
「泣いてた」
母が。
「『二人ともいなくなった』って」
私は眉を寄せる。
「二人?」
榊原の目が私を見る。
「雅彦さんと――」
一度、息を呑む。
「あの子」
背中が冷たくなる。
十二年前。
父は家族を捨てた。
私はそう思っていた。
でも、
父は一人で消えたのではなかった。
相原奈緒の娘と、
一緒に消えた。
その瞬間。
私のスマートフォンが震えた。
知らない番号。
出る。
「もしもし」
若い女の声。
前と同じ。
『やっとそこまで分かったんですね』
私は立ち上がった。
「あなたは奈緒さんの娘?」
女は答えない。
「父と一緒にいるんですか」
短い沈黙。
『昔は』
「今は?」
女が小さく笑った。
『水城澪さん』
「何」
『お母さんが榊原さんからもらってたお金』
全員がスマートフォンを見る。
『私の養育費じゃないですよ』
「じゃあ何のお金なの」
女は言った。
『私を黙らせるためのお金です』
胸が凍る。
『あなたのお母さんはね』
そして、
静かに続けた。
『私が見た殺人を、十五年間隠してたんです』
コメント
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ああ、もう……胸が苦しいですね。ここにきて「黙らせるための金」ですか。それまで「養育費」だと思ってたものが全部ひっくり返る感じが、本当に巧いなと。母・千佳さんが払ってたのは口止め料で、しかもその「見た殺人」を十五年間隠していた——だとすると、七人の死亡通知の意味も、父が奈緒さんの娘と消えた経緯も、まったく別の輪郭を持ち始めますね。榊原の「怖かった」が単なる保身じゃなく、本当に死を恐れる実感だったと分かると、全員の沈黙の重さが変わる。続き、気になりすぎます。