翌日、いつものように副社長室でパソコンに向かいながら、文哉はふと真里亜を見る。
紺のスーツを着て髪を後ろで束ね、真剣にパソコンのキーボードに指を走らせているその姿は、夕べのドレス姿の面影もない。
(まるで別人だな。いや、もとは美人なのかも?少し髪型を変えて明るい色の服を着れば…)
そこまで考えて、慌てて頭を振った。
(俺としたことが、まんまとスパイの策略にハマってるぞ)
気を引き締めて、もう一度そっと真里亜の様子をうかがう。
(情報を盗むような怪しい気配もないし、何が目的なんだ?それにどうやって俺の秘書になった?智史に聞いても全く答えにならないし)
秘書課の事なら知らない事などないはずなのに、なぜか真里亜については、
「どうだったかなあ。課長が配属したんじゃないかなあ」
と、のらりくらりとかわされるだけだった。
とにかく注意深く探るしかないか、と思っていると、真里亜が手を止めて、ふうと息をついた。
両手をグーにして肩の横に持ってくると、目をつぶりながら、うーん…と小さく伸びをする。
(なんだそれ、猫か?)
思わずじっと見つめていると、パチリと目を開けた真里亜と視線が合ってしまった。
(ヤバイ!)
慌てて文哉はパソコンに目を落とす。
(落ち着け。いつもの俺を思い出せ)
やたらとせわしなくキーボードを叩きながら、文哉は必死で気持ちを落ち着かせていた。
「んー…」
給湯室でコーヒーを淹れながら、真里亜は先程の文哉の様子を思い返して首をひねる。
(なんか様子が変だったなあ。妙に落ち着きなくて、慌てて視線を逸らしたり。そもそも目が合うなんて、今まであったっけ?)
どうしたんだろうと思いながら、ゆっくりとドリップコーヒーを淹れていると、廊下のドアから住谷が入って来た。
「阿部さん、お疲れ様です。これ、休憩の時にでもどうぞ」
そう言って、有名なパティスリーの紙袋を差し出す。
「わあ!ありがとうございます」
「あとこれは、副社長に。お気に入りのビターチョコです」
おおー、と真里亜は小さな箱を真顔で受け取る。
「さすがは住谷さん。副社長のお好きなもの、何でもご存知なんですね」
「まあ、つき合い長いですからね」
「えっ!そうなんですか?そんなに前からおつき合いされてたんですね」
「ん?話しませんでしたっけ?小学生の頃からの同級生だって」
あ!と真里亜は口元に手をやる。
「そうでしたね、そのおつき合いですよね。あはは!私ったらもう…。あ、ちょうど今コーヒーを淹れたところなんです。早速このチョコレート、副社長にお出ししますね。住谷さんもご一緒にいかがですか?」
笑ってごまかしながらお茶に誘うと、住谷は優しい笑みを浮かべる。
「阿部さん、本当にありがとうございます。副社長を見放さないでくださって」
「え?何ですか、急に」
「いえ、あなたにはいつも感謝しているんです。皆が逃げ出したのに、あなただけは副社長のそばにいてくれる。彼に代わってお礼を言わせてください。本当にありがとう」
「いえいえ、そんな。住谷さんこそ、副社長の心の支えですよ。『彼に代わってお礼を』なんて、本当に素敵ですね。羨ましいなあ」
私にもそんなふうに想ってくれる彼がいたらなあ、と真里亜は頬に手を当ててうっとりした。
「阿部さんは、確か入社3年目でしたっけ?」
紙袋からケーキの箱を取り出しつつ、住谷が尋ねる。
「はい、そうです。新卒で入社して、ずっと人事部にいました」
「ということは、今25歳?」
「まだ24歳で、今年で25になります」
「そうなんですね。若いのにしっかりしてる。実は昨日、人事部の部長に言われたんですよ。早く阿部さんを人事部に戻して欲しいと」
え?と、真里亜は驚く。
「部長がそんなことを?」
「ええ。優秀な人材に抜けられて、困っている。アベ・マリアはうちになくてはならない存在なんだって。なかなかチャーミングなニックネームですね。皆さんからそう呼ばれているのですか?」
うぐっと真里亜は言葉に詰まる。
「いえ、あの…。本名です」
え?と今度は住谷が首を傾げる。
「私、下の名前は真里亜といいます」
「ええー?!そうだったんですか!すごいですね」
「すみません。美しい方なら似合うのでしょうけど、私みたいな者がそんな名前…。申し訳なくてフルネームは名乗れません」
「まさかそんな。素敵じゃないですか。人事部の方も、あなたにぴったりだからこそ、親しみを込めてアベ・マリアって呼んでいるのでしょうね」
「いえ、半分からかっているだけなんです」
「そうですか?でも私はもう、あなたのことは真里亜さんとしか思えません」
その後もしきりに、
「すごいなあ。初めて会ったよ、アベ・マリアさん」
と感心していた。
「副社長、コーヒーをどうぞ。こちらは住谷さんが持って来てくださったビターチョコでございます」
副社長室に戻ると、真里亜は文哉のデスクの端にコーヒーカップとチョコを載せたプレートを並べる。
お辞儀をして自分の席に戻ろうとすると、ソファにカップを並べていた住谷が顔を上げた。
「真里亜ちゃん。私達はここで休憩しませんか?」
「は、はい?!」
トレーを胸に抱えたまま真里亜は固まる。
「そ、そんな。副社長室のソファで休憩なんて!」
(それにサラッと下の名前をちゃん付けで呼ぶなんて…。恋人の副社長の前でそんな)
チラリと文哉に目を向けると、案の定固まっている。
「あの、私は給湯室でいただきます」
「えー、そんな所で食べたらせっかくの美味しさが半減するよ。ここのケーキ、本当に美味しいから」
ほら、座って!と、住谷は先にソファに座ってから真里亜を促す。
(いやいや。あなたは恋人だからいいけど、私は絶対怒られますって!)
「あの、本当に私は結構です。住谷さんは、どうぞソファで召し上がってくださいね。あ!それなら副社長もソファで召し上がってはいかがでしょう?コーヒー、こちらにご用意しますね」
真里亜はデスクに置いたばかりのコーヒーとチョコを、ソファの前のテーブルに移動させる。
「それでは、お二人でどうぞごゆっくり」
おもむろに頭を下げて、真里亜は部屋を出て行った。
「なあ、文哉」
「なんだよ」
真里亜がいなくなり、仕方なく文哉はソファで住谷とコーヒーを飲んでいた。
「驚いた?びっくりしたよな?」
「だから、何がだ」
「彼女の名前だよ」
「彼女の名前って?」
ボソッと聞き返すと、住谷はおかしそうに笑い出す。
「なーにしらばっくれてるの。あからさまに驚いて固まってたぞ」
「それはその…。本当なのか?彼女の名前」
「そうだよ、真里亜ちゃん。フルネームはアベ・マリア」
「偽名じゃないのか?ほら、スパイネームとかコードネームとか…」
「あはは!違う。本名だよ。それだけは確かだ」
「そうなのか。すごいな」
「ああ、俺も驚いた。でもよく考えたら似合ってるよな。ほら、夕べのドレス姿の彼女は品の良いお嬢様みたいで、アベ・マリアって名前も頷ける」
文哉は視線を落としてコーヒーを飲みながら、無言を貫く。
「否定しないってことはお前も同意見か」
「は?なんでそうなるんだよ」
「おいおい、俺達知り合って何年だよ?お前の考えてることなんて、何でもお見通しだぞ。彼女のことが気になってることもな」
「そ、それは!だって、スパイなんだぞ?気にかけなきゃだめだろう」
そういうことにしておきましょうかねーと、住谷は涼しい顔でコーヒーを口にした。
「お?アベ・マリアじゃないか。どうした?天上人がこんな下界のカフェテリアにいるなんて」
「あ、藤田くん!やだ、天上人なんて。何言ってるの?」
「だって上にもカフェテリアあるだろう?あ、アトリウムラウンジだっけ?」
「ああ、うん。でもなんか、ここの方が落ち着くからさ」
副社長室を出たあと、真里亜は人事部に近い3階のカフェテリアに来ていた。
副社長が部屋にいる時に休憩を取るのは気が引けるが、今は住谷がいる。
邪魔をしないように、少しゆっくりしてから戻るつもりだった。
「なんかあったのか?」
コーヒーカップを手に、藤田が向かいの席に座る。
「そういう訳じゃないんだけど…。ねえ、藤田くんって恋人は女の子派?それとも同性派?」
へっ?!と、藤田が素っ頓狂な声を出す。
「え、何の話?恋人?お前なあ、俺はてっきり、深刻な悩みでもあるのかと心配してたんだぞ」
「そうなの?」
「当たり前だろ。女性秘書がみんな逃げ出した冷血副社長に、秘書課でもないお前がつくなんて。さぞかし辛い目に遭ってるのかと思いきや、恋人の話かよ?」
「だって、真剣に悩んでるんだもん」
住谷に、副社長の前で「真里亜ちゃん」などと呼ばれては、二人の仲が険悪になってしまう。
もしかするとまさに今、副社長と住谷がモメているかもしれないと思うと、部屋に戻るのも気が重かった。
「部長も心配してたんだぞ?この間お前が泣きついてきたからな。どうなんだ?その後、副社長とは。イジメられたりしてないか?」
「ああ、うん。イジメられてはない。副社長は相変わらず無愛想だけど、でも慣れたというか、別に平気」
「へえー、さすがだな。やっぱりお前って肝が据わってる。図太いな、アベ・マリア」
真里亜は眉間にしわを寄せる。
「もう、藤田くん。なんか色々引っかかるんだけど」
「褒めてるんだよ、これでも。一度は逃げ出そうとしたのに、ちゃんと戻って踏ん張ってるんだろ?慣れない秘書の仕事もこなしながらさ。それってすごいことだぞ。誰にでも出来るもんじゃない」
そうかな…と真里亜は呟く。
「そうだよ。でも悩み事があるなら、一人で抱え込まずに相談しろよ。部長にでもいいし、俺でもいいからさ」
「うん、分かった。ありがとう!藤田くん。なんかちょっと元気出た」
「そっか!」
真里亜が笑顔になったのを見て、藤田も嬉しそうに笑った。
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