「きょうこ」
副社長に呼ばれて、すぐさま近くに寄る。
一歩下がった所で立ち止まり、副社長と話をしていた令嬢とその父親にお辞儀をすると、副社長にグッと肩を抱き寄せられた。
「いずれ彼女と一緒になるつもりですので」
「そ、そうでしたか。分かりました。では失礼いたします」
そう言って父親が促すと、令嬢はチラリと視線を上げてから去って行った。
一瞬目が合い、その瞳が悲しげに潤んでいて心が痛む。
(うっ、ごめんなさい)
副社長はその後も色々な人に声をかけられ、挨拶を交わしている。
隙のない洗練された身のこなし、180cmを超える長身に整った顔立ちで、会場内の女性全員の注目を集めていると言っても過言ではない。
(確かに見目麗しいものね。うっとり見とれちゃう気持ちも分かるわ。でもねえ、この人は遠くから眺めるのが一番いいのよ。ソーシャルディスタンスは保ったほうが…)
壁際に控えてそんなことを考えていると、ふと副社長が振り返った。
「ともこ」
「はい」
返事をして近くに歩み寄りながら、ん?と首をひねる。
(あれ?さっきは、きょうこじゃなかったっけ?)
そう考えつつ、副社長と向き合っている綺麗なロングヘアの女性の前に行くと、微笑んで一礼する。
副社長が、またもや肩を抱き寄せてきた。
「悪いが、俺はこいつを手放すつもりはない。諦めてくれ」
すると女性は訝しそうに眉根を寄せた。
「あら?文哉さん。先月は別の女性を連れていらっしゃいましたよね?」
「それが何か?」
「いえ、その…。先月の方はどうなさったのかと…」
「別れました。今はこの、きょうこと…うっ!」
思い切り足を踏まれた副社長は、整った顔を歪めて睨んでくる。
「ともこと申します。初めまして」
しれっと嘘をつきながら、とにかくにこやかに笑顔を崩さず、どこかの令嬢らしき女性に頭を下げた。
「副社長!別にどんな名前でも構いませんが、せめて統一してください!」
テラスに連れ出し、周りに人がいないのを確かめると、仁王立ちで副社長に詰め寄る。
「私を『ともこ』と呼ばれたのに、そのあと『きょうこ』とおっしゃいましたよね?それでなくても先程の女性は、何か疑わしいと勘づいておられるようでした。よろしいのですか?これがお芝居だとバレても」
ああ、もう、うるさいな、と文哉は顔をしかめながら呟く。
「ちょっと名前を間違えたくらいで、そんなにガミガミ怒鳴ることないだろう?」
これだから女は…と小さく独りごちたつもりが、どうやら聞かれたらしい。
「副社長。それ、セクハラですよ。それに私は、名前を間違われたことに抗議しているのではありません。そんなボロを出しては、すぐに嘘だとバレますが、よろしいのですか?と申し上げているのです」
「分かったよ!次からは間違えない。それでいいんだろ?」
大きくため息をついてから、顔を上げて聞く。
「それで、どっちが正しいんだ?ともこか?それともきょうこか?」
「どっちも違います!!」
更に大きな声で咎められ、文哉はまた顔をしかめた。
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