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朝のチャイムが鳴るずっと前から、遥はすでに教室にいた。 誰よりも早く着席し、何も考えず、誰も見ず、息だけを潜めて存在している。そうやって、「無害」を装うしかなかった。
が、その努力は、結局のところ“意味”を持たなかった。
「なあ、昨日のって、十点くらい?」
登校してきた一人の男子が、笑いながら後ろの席の友人に言った。
もう一人が肩をすくめる。
「五点だろ、反応薄かったし」
「でも、あの声、わりと好きだった」
その一言で、遥の背筋がぴくりと動いた。
わざと聞こえるように話しているのか、それとも本当に無意識なのか──もはや区別すらつかない。けれど、確実に言えるのは、彼らが「遥の反応」を数値化し、楽しんでいるという事実だけだった。
机を蹴られた音がした。別の生徒が、遥の席に近づいてくる。
周囲は静まり返ることもなければ、止める者もいない。ただ、「今は誰の番なのか」に集中し、空気を読みながらそれぞれの役割を演じている。
「なあ、“今日は”もう準備できてんの? 昨日はちょっと微妙だったからさあ」
その言葉に、遥は俯いたまま目を細める。
「──何を、準備すればいいんだよ」
声はかすれていた。
だが、確かに“反応”はあった。それに喜んだのか、男子は机に手をつき、顔を近づけてくる。
「そういうの。いいねぇ。俺、今の“ため息”に八点」
背後から、別の女子の声がした。
「声だけじゃわかんないでしょ。顔もちゃんと見ないと。ね、見せて?」
半ば強引に顎を掴まれ、顔を上げさせられる。
視線を逸らせば弱いと見なされる。睨み返せば“評価”の対象になる。
遥は、ただ、耐えた。睨みもせず、逃げもせず。ただ、静かに目を伏せた。
「ふーん。なんか……こっちが泣かされそう。てか、今日の声、ちょっとエロくない?」
笑い声が起きる。
まるで“商品”に値札をつけるような目で、遥は観察されていた。
「てか、後ろのロッカー、鍵ついてたっけ? 中、空いてる?」
別の男子が言った。
不穏な予感が、遥の背筋をなぞる。
「ちょ、あれ、やる? 例の“静音検査”。外に聞こえないか試してみよーぜ」
「マジで? やっば。誰か見張っててよ」
教室という空間が、すでに密室と化していた。
誰も教師の到来を期待しない。教師も「見なかった」ことにするという前提のうえで、制度は緩慢に腐っていた。
腕を引かれ、抵抗すれば“罰”。黙っていれば“同意”。
「やめろ……っ」
低く抗う声を出した。
それは遥にとって唯一の“自衛”だった。
「いいね、それ。録っとこ」
スマホが向けられる。
抵抗の声さえ、彼らには“コンテンツ”でしかない。
ロッカーの影。背を押しつけられ、誰かの指先が首筋をなぞる。
「ほら。泣くの、まだ?」
皮膚を叩く音。誰かがわざとらしく咳払いをして、笑った。
──ここが「教室」だということを、忘れそうになる。
けれど。
「……泣かねえよ」
遥は言った。
震える声ではなく、固い声だった。
それが、誰の胸を打つわけでもない。けれど、遥自身の心にだけは確かに刻まれた。
泣かない。それだけが、まだ自分で選べる唯一の自由だったから。
「──あ、ちょっと見せて」
誰かが指を伸ばし、遥の制服の襟元をつまむ。
わざとらしく首を傾けて、そのまま肌の露出を確認するように指を滑らせる。
「昨日のアザ、まだ残ってるんだ。えー、誰がつけたっけ、これ?」
答える者はいない。ただ、ざわめきと笑いが、教室の一角で小さく弾ける。
まるで珍しい模様の動物でも観察するような目。そこに“罪悪”も“配慮”もない。
「でもさ、こいつさ……泣かないんだよね。えらいよねー、ほんと」
「逆に燃えるわ、そういうの」
「声だけはちゃんと出すんだよな、律儀っていうか……可愛いっていうか?」
揃いも揃って口にする「賞賛」らしき言葉は、どれも遥の尊厳を削るものでしかなかった。
机と椅子に囲まれた空間。誰もが席にいるふりをしながら、片手でスマホを構え、もう片手で書類を持ち、教科書の陰でひそかに──彼を“使う”準備をしている。
そして、それを監視する者はいない。
教師は来ても、なにも言わない。むしろ、生徒の様子をざっと見て、視線が遥に向かないよう、あからさまに視線を逸らしていく。
「おい、次の英語、ノート写させて」
突然、男子の一人が声をかける。
だがその手は、遥のノートではなく、机の縁を撫でるように弄っている。
「……あんた、英語なんかやってたか?」
遥は、吐き捨てるように返す。
その声の棘は、かすかに震えていた。声を出せば、それだけで反応を引き出される。わかっていても──もう、無反応ではいられなかった。
「うわ、ツンだツン。俺、今日の反応に九点」
「じゃあ、お仕置きしなきゃ。ね、休み時間、誰んとこ連れてく?」
「またトイレ? つまんないよな。今日は……屋上?」
「音、響くから駄目。美術準備室とか?」
「いや、ここでいいじゃん。ついたてあるし。ほら、静かにできるでしょ?」
全員が“日常の一部”として話している。
それが最も恐ろしいことだった。
抵抗すればするほど「やっぱりこいつはいい」と言われ、
黙れば「今日はおとなしいね、逆にエロい」と囁かれる。
教室は開かれていた。出入りも自由。廊下から覗くこともできる。
けれど、そこで起きていることは、密室と同じ。
いや、むしろ──密室よりも深く、逃げ場がなかった。
遥は机の上のペンを握ったまま、呼吸を殺す。
引きちぎられそうな感情を、喉の奥に押し込んで、吐き出さないようにする。
誰も味方じゃない。誰も止めない。それでも。
「……ちょっとさ、声録らせてよ。“お願い”って、言って」
真横にいた女子が、小さく笑った。
スマホの画面に録音アプリが開かれているのが見えた。
遥は、ゆっくりと振り返る。
目を逸らさず、唇だけを動かした。
「──死ねばいいのに」
その瞬間。数人が、吹き出した。
「うわ、キレたー」 「それ、録っといた。超いい」
拍手が起きる。笑い声が広がる。
誰かの手が、また彼の肩に触れた。
「今の、“次”のテーマに使うね。死ねばいいのに、って言った後の表情、期待してるから」
──遥の背中が、震えていた。
笑われているのではない。食われている。
言葉ひとつ、表情ひとつ。すべてを、喰い物にされていた。