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十月六日の夜、花屋の帳場は花より紙の匂いが強かった。レジ横の小机に、オブラスが資料を何枚も並べていたからである。回遊人数、平均滞在時間、一輪包みからの再来店率、焼き菓子とのセット購入率、祭り開催日の周辺売上。数字は細かく、隙間なく並んでいる。
「きれい」
ハヤが思わず言うと、オブラスは顔を上げずに答えた。
「褒めるところが変です」
「だって、ちゃんと積み上がってる」
「積み上がってます。誰かが毎日店を開けたからです」
帳場の反対側で、ノイシュタットが勝手に見出しを考えていた。
「“町は物語で儲かる”」
「却下」
オブラスが即答する。
「では“嘘が救う、実売上”」
「さらに却下」
「君は数字に詩がない」
「あなたは詩に数字がない」
やり取りを聞いていたエフチキアが笑い、アンネロスは紙袋を机へ置いた。
「糖分入れなさい。人は空腹だと余計な見出しを考えるから」
「その説は正しい気がします」
ジョンナが素直にうなずく。
資料は町議会に出すためのものだった。白群リゾートの再開発案に対して、商店街側にも生き残る算段があると示す必要がある。そのために、オブラスは眠る時間を削って数字を整えていた。
ただし、本人は最初から分かっている。
紙だけでは足りない。
この町の人たちは、数字で納得する前に、誰の声かを聞く。
「だから、最後の一枚はハヤさんです」
オブラスが資料の束から一枚抜いた。
白紙だった。
「え」
「ここに語りを入れてください。長くなくていい。三分も要りません」
「むり」
反射で出た。
「まだ何も見てないのに断った」
ノイシュタットが面白そうに言う。
「だって分かるもの」
「分かっていても、やる人はやります」
オブラスは淡々としている。「数字は僕が出す。法的な穴はジョンナが見ます。導線の見直しはノイシュタットがやる。でも、店で花を渡している人の声は、ハヤさんしか持ってない」
言い返そうとして、言葉が出なかった。
確かに、供花の注文で相手が声を詰まらせる瞬間も、仲直り用の花束を選ぶときの迷いも、一輪包みを買った子どもの手の温度も、帳簿には入らない。
「私は、うまく話せない」
やっと出たのは、それだった。
オブラスは一度だけうなずく。
「うまくなくていい。誰が話すかが大事です」
「それ、ずるい言い方だな」
アンネロスが笑う。
「正しい言い方です」
オブラスは訂正しなかった。
夜が深くなるほど、資料は完成に近づいた。最後の表には、祭り開催前と開催後の差が静かに並ぶ。減っていた客足が戻り、店の灯りが増え、回遊が生まれ、注文の種類が変わっている。数字は口数が少ないくせに、意外なほど雄弁だった。
閉店の札を返したあと、ハヤは白紙の一枚を持って店の外へ出た。朝風通りは冷え始めている。遠くの神社から、木を打つ小さな音がした。
白い紙は軽いのに、持っていると少しだけ手のひらが温まった。
何を書けばいいかはまだ分からない。ただ、逃げずに持っていることならできる気がした。
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