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その日の夕刻、ムエイルは工房の机いっぱいに地図と記録紙を広げた。
「廃棄命令は明日の日没まで。なら、それまでに監督官が無視できない形へします」
アキムは疲れの残る目をこすった。
「形って?」
「数字です」
ムエイルは即答した。
「同じ水路。同じ品種。同じ植え付け時期。白枯れの進み方も近い田を二つに分けます。一方には発酵液、もう一方には何もしない。差が出れば、さっきの葉だけより強い証拠になる」
「でも、一日で分かるかな」
「分からなければ廃棄です。だから、分かる条件を揃えます」
長い議論を始めると止まらないムエイルが、今日は珍しく短かった。
選ばれたのは領都南の水田だった。
同じ農家が管理する二枚で、水路も種籾も同じ。病斑の割合も、ムエイルの記録ではほぼ等しい。
ただし、隣り合っているだけでは水が混ざる。
「境を作る」
ディーヴオンが言った。
教会の命令は培養物の廃棄であって、田の区画整理を禁じてはいない。
「規則の外で動くつもりですか」
アンが眉を寄せる。
「規則の中だ」
ディーヴオンは笑った。
「だから面倒なんだよ」
日が沈む前から、守備隊の兵たちは泥の中へ入った。
田の間に板を打ち込み、土嚢を積み、流入口を二つへ分ける。片方だけに発酵液を薄めて入れ、もう片方には同量の水を流す。
作業は夜通し続いた。板の隙間を土で塞ぎ、流入量を合わせ、処置区と対照区が混ざらないことを何度も確かめた。
ディーヴオンも腰まで泥に浸かっていた。
「隊長がやる仕事じゃないでしょう」
アキムが言うと、彼は杭を打ちながら答えた。
「俺がやれば、兵が『本当にやるんだ』と分かる」
近くでは農民たちが不安そうに見ていた。
「失敗したら、こっちも焼かれるんだろ」
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「変な汁を入れて、もっと腐ったらどうする」
ディーヴオンは手を止めた。
「その時は俺が先に頭を下げる。だが、何もしなくても焼かれる」
農民の一人が黙り込む。
「明日の朝まで、貸してくれ」
派手な演説ではなかった。
だが、最後には農民たちも板を運び始めた。
夜明け後、アキムは処置区と対照区を何度も見比べた。
銀色の帽子では差があるように見える。
けれど、それだけでは駄目だ。
「見たいものを見てる可能性がある」
「だから測ります」
ムエイルが病斑の端へ細い糸を当てた。
処置前につけた印から、どれだけ白い部分が広がったか。
十株ずつ。二十株ずつ。
昼前には、紙の上に数字が並んだ。
対照区では、多くの株で病斑が指一本ぶん以上広がっていた。
処置区では、広がった株もある。
だが平均すると、明らかに小さい。
「止まったわけじゃない」
アキムは言った。
「でも、昨日と同じ傾向だ」
「数字にすると、もっとはっきりします」
ムエイルは表を指で叩いた。
その声には、いつもの長い説明より強い確信があった。
午後、教会監督官が兵を伴って現れた。
灰色の法衣。銀の杖。
「廃棄期限を確認しに来た」
工房へ向かおうとする監督官の前へ、ムエイルが立つ。
「その前に、これを見てください」
「管理官。命令は覆らない」
「覆せとは言っていません」
紙を一枚、差し出す。
「三日だけ延ばしてください」
監督官の眉が動いた。
「理由は?」
「同一条件の田で、処置区だけ病斑増加が鈍っています。葉の試験でも同じ傾向です。今日廃棄すれば、白枯れを抑えられる可能性まで捨てることになります」
「一日の数字で神意を論ずるのか」
その言葉に、アンが一歩前へ出た。
アキムは身構えた。
しかしアンは監督官ではなく、表を見た。
「これは神意の話ではありません」
静かな声だった。
「病が広がったか、広がらなかったか。それを数えただけです」
監督官が彼女を見る。
「アン」
「私も、培養には反対です」
一瞬、アキムの胸が沈む。
「ですが、間違っていると証明するためにも、比較は必要です」
アンは視線を逸らさなかった。
長い沈黙のあと、監督官は杖の石突きを地面へ落とした。
「三日だ」
ムエイルが息を吐く。
「三日後、再現しなければ全廃棄。感染田焼却の予定も変えない」
「承知しました」
監督官が去ると、ディーヴオンが泥だらけの兵たちを振り返った。
「聞いたか! 三日稼いだ!」
歓声が上がる。
彼はすぐ続けた。
「稼いだのは俺じゃない。泥の中で板を打った連中と、田を貸した農家と、数字を出した管理官だ!」
ムエイルは照れもせず、もう地図を広げていた。
「喜ぶ前に次です」
「ほんとに休まないな」
ミルヴァが肩を落とす。
ムエイルは病害地図へ、別の紙から小さな黒点を書き写していった。
「昨日、農具台帳も出してもらいました。水車、施肥所、誘蛾灯……全部です」
黒点が一列、二列と増える。
アキムは地図へ顔を近づけた。
白枯れの濃い場所。
その中心を縫うように、黒点が並んでいる。
「これ……」
ムエイルが指を置いた。
「誘蛾灯の配置です」
病害の帯と、灯の列が重なっていた。
偶然と呼ぶには、あまりにもきれいに。
コメント
1件
いや、もう、めっちゃ熱かったです……! 「数字で勝負」っていうムエイルの冷静な戦略と、泥まみれになって動いたディーヴオンたちの姿が、本当にかっこよかった。 アンが「神意じゃなくて数えただけ」って言い切ったところ、胸が震えました。 最後の誘蛾灯の配置、偶然じゃないよね……これからどうなるんだろう、続きが気になって仕方ないです🌙