昼休み。教室のざわめきの中、遥は弁当の箸を持ったまま、固まっていた。
笑うべきだった。
いつものように、蓮司の冗談に乗って、ふざけて。
わざとらしい「恋人ごっこ」を続ければ、誰も核心に触れない。
日下部の目も、遠ざけられる。
そうやって自分を守ってきた。
──なのに。
今日は、笑えなかった。
蓮司の軽い声が耳元で弾む。
「なに? 今日、テンション低くね? ……また“日下部不足”?」
冗談めかした声。
でも、その視線は笑っていない。
遥の奥を、冷ややかに探っている。
「……別に」
わずかに力のない声で返すと、蓮司は肩をすくめて笑った。
「そっか。じゃあ、補充しとけよ。夜、たっぷり“俺の方”で」
教室の一角で、女子たちの笑い声が上がる。
わざと聞こえるように──嘲笑。
「マジで媚びすぎじゃない? あれで男のつもりとかウケる」
「蓮司もさ、ほんとにあんなの相手してんのかなぁ? キモ」
「……いやでも、“そういう”のが好きなのかもね。ああいう顔、反応、男って意外とさぁ……」
笑い声と卑猥な想像。
耳を塞ぎたくなるのに、どこにも逃げ場がなかった。
遥は、じっと弁当を見つめたまま、何も言わなかった。
箸の先が震えていた。
──学校は、地獄だ。
けれど、家に帰ってもそれは続く。
玄関の戸を開けた瞬間に飛び込む、義母の尖った声。
「今日も蓮司くんといたの? ……はしたない子ね」
「いくら顔だけ良くても、中身がこれじゃ誰にも選ばれないわよ」
何も返さなければ、皮肉が続く。
目を合わせれば、もっと鋭くなる。
兄弟たち──晃司、颯馬、玲央菜、沙耶香──
彼らの視線はもっと直接的だ。
暴力や押し込めるような性的な言葉、日常のように続いてきた。
自室の扉を閉めた瞬間に、全身の筋肉が弛緩する。
そこは唯一の「無音」の場所。
でも、「無事」ではない。
鏡の中の顔を見る。
笑う練習をしてみる。
“可愛い”と思われそうな角度を試す。
どこが「蓮司が反応する」顔かをなぞる。
もう何が本当で、どこが嘘か、遥自身にもわからない。
夜、蓮司の部屋。
演技の続きをしなければならない。
でも、もう指先がうまく動かない。
声がうまく出ない。
「どうしたの、今日。……演技、下手になってんじゃん」
蓮司が囁くように言う。
その笑顔は、どこまでも無邪気で、どこまでも残酷だった。
(……わかってる。俺が壊れてきてるって)
──でも、やめられない。
日下部が見てるかもしれないから。
信じてもらいたい。突き放したい。
どっちも叶えるには、「この演技」を貫くしかない。
けれど──限界は、すぐそこにある。
身体は反応する。
蓮司の指先に。息に。声に。
でも心は、どんどん擦り切れていく。
「ねぇ、遥。……今日、ちょっと泣きそうだったよね?」
蓮司が耳元でそう囁いたとき、遥は気づいた。
──ああ、俺、もうとっくに“演技だけ”じゃ済んでないんだ。
身体と心の境界が、日々、崩れていく。
教室でも、家でも、ベッドの上でも──
もう、「どこに自分がいるのか」すらわからなくなっていた。