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相談室のドアが閉まる音が、やけに大きく響いた。
椅子に腰を下ろした相談者は、少し間を置いてから口を開く。
「……泣きたいんだけどさ」
机に肘をついていた蓮司が、視線だけを向ける。
「うん」
「理由がなくて、泣けない」
蓮司は小さく息を吐いた。
「それは厄介だな」
「だろ。理由がないと、泣いちゃダメな気がして」
相談者は肩をすくめる。
「ちゃんとした理由がないと、感情が出てきちゃいけない感じ」
蓮司は少しだけ口角を上げた。
「許可制か」
「そう。完全に」
相談者は笑おうとして、途中でやめた。
「別にさ、不幸なことがあったわけじゃない」
「よくある前置きだな」
「失礼だな」
「続けて」
「毎日、普通。嫌なこともあるけど、致命的じゃない」
「なるほど」
相談者は一拍置いてから、声を落とす。
「なのに、胸の奥がずっと重い」
「重さだけ残ってる感じか」
「そう。それ」
蓮司は天井を見て、少し考える。
「泣きたいのに泣けない時って」
「うん」
「感情がないわけじゃない」
相談者は顔を上げる。
「じゃあ何」
「感情が散らばりすぎてる」
「散らばる?」
「怒り、疲れ、寂しさ、安心、諦め。 全部がちょっとずつ。
泣くには薄い。でも、合計すると重い」
相談者は黙り込んだ。
「理由がないと泣けないのはな」
蓮司は続ける。
「自分の感情を、自分で信用してないからだ」
「信用……してない?」
「“こんなんで泣くほどじゃない”って、自分に言ってる」
「……言ってるな」
「だろ」
淡々とした指摘なのに、突き放す感じはない。
「誰かに説明できない感情って」
「うん」
「自分でも却下しがちだ」
「説明できないと、存在しちゃいけないみたいで」
「そういう感覚」
相談者は視線を落とす。
「泣いたらさ、“何があったの?”って聞かれるだろ」
「聞かれるな」
「それに答えられないのが、怖い」
「理由不明です、って言えない?」
「言えない」
「だよな」
少しの沈黙。
「なあ」
蓮司が声を出す。
「何」
「泣くのに、理由はいらない」
「……理屈では知ってる」
「理屈だけだな」
「感情が納得してない」
「それも分かる」
蓮司は椅子にもたれた。
「泣けない時って」
「うん」
「泣く準備はできてる。でも、安全確認が終わってない」
「安全確認?」
蓮司は指を折るように、淡々と続けた。
「誰にも説明しなくていいか。
責められないか。
自分で自分を否定しないか」
相談者は、ゆっくり息を吐いた。
「それだ」
「だから」
「?」
「理由を探すより先に」
「うん」
「泣かなくていい場所を作れ」
「泣かなくていい場所?」
「泣いても、泣かなくてもいい場所」
「……」
「そこで出なかったら」
「?」
「今日は泣かない日だっただけだ」
「それでいいのか」
「いい」
蓮司は少しだけ笑う。
「泣けない自分を責めるな」
「……」
「泣けないのも、ちゃんと限界のサインだ」
相談者は目を伏せたまま言った。
「理由がないのに苦しいのって、甘えてるみたいで」
「違う」
蓮司は即答した。
「溜めすぎて、感情のラベルが剥がれただけだ」
「ラベル?」
「これは悲しい、これはつらい、ってやつ」
「分類不能ってことか」
「そう」
また静かになる。
「なあ」
蓮司が聞く。
「今日は泣けそうか」
「……分かんない」
「それでいい」
「……」
「泣けない日はな」
「うん」
「生き延びてる日だ」
相談者は、少しだけ笑った。
「慰め下手だな」
「よく言われる」
立ち上がる気配がする。
「理由がない涙は」
「うん」
「一番正直だ」
「……覚えとく」
ドアが閉まる音がして、部屋はまた静かになった。
泣けない夜は、感情が死んだわけじゃない。
まだ、守られているだけだ。