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空乃 美晴
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雨晒しの原稿用紙
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翌日の夕方、月椿堂の引き戸が、いつになく慎重に開いた。
「営業中ですけど、今は質預かりより秘密のほうが高いですよ」
ペトロニオがそう言うと、入ってきた人物は眉をひそめた。
「うるさい」
レリヤだった。
きっちりした服装のままなのに、片腕には大きな紙袋を抱えている。しかも顔が少し青い。
クリストルンは慌てて立ち上がった。
「レリヤさん?」
「大声出さないで。途中で二回、やっぱり帰ろうと思ったんだから」
そう言いながらも、彼女は奥座敷までまっすぐ来た。
紙袋を畳の上に置くと、ずしりと重い音がする。
「何ですか、これ」
「数字の機嫌が悪い証拠」
中から出てきたのは、原価表、承認控え、過去の修正履歴を印刷した書類の束だった。ディトがすぐに顔つきを変える。ルチノも膝を寄せた。
レリヤは眼鏡を押し上げ、早口で言った。
「エドワイン室長が新商品の原価を何回も付け替えてた。表向きは試作費の整理。でも、責任の流れが見えにくくなるようにずらしてる」
「今の案件だけじゃない?」
「たぶん、二十年前も似たような処理をしてる」
クリストルンの息が止まる。
「どうして分かるんですか」
「数字の癖は消えないから。人の字と同じ」
レリヤは一枚の表を指で叩いた。
「ここ。管理番号の飛ばし方が変なの。普通はしない。でも、前に見たことがあった」
「どこで」
「古い倉庫台帳の閲覧記録。あれ見たとき、気持ち悪かったのよ」
彼女はそこで一度唇をかんだ。
「私、ずっと損なほうに立ちたくなかったの。上に逆らって得することなんて、たいしてないし」
「レリヤさん……」
「でもね」
レリヤは紙を握る指先に力を込めた。
「損得で動く私にも、見過ごせない線くらいある」
空気が変わる。
ただの先輩ではなく、一人の証人がここへ来たのだと分かった。
ペトロニオがぽつりと言う。
「経理の寝返りって、だいぶ怖いね」
「寝返ってない。向きを戻しただけ」
レリヤは即答した。
ルチノが書類を手に取り、静かにうなずく。
「これで、今と過去がつながる」
「まだ足りないわ。数字だけじゃ人は泣かないもの」
レリヤの視線がクリストルンへ向く。
「だから、あなたはあなたの言葉を準備して」
クリストルンは強くうなずいた。
数字は冷たい。
けれど、冷たいからこそ、嘘の熱をあぶり出すことがある。
レリヤが持ってきた紙束は、奥座敷の空気を一段深く引き締めていた。