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灯依
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第1話「おはよう代表」
朝のチャイムが鳴る五分前。
ヒロトは、教室の扉を勢いよく開けた。
「おっはよー!今日も世界は俺を待っていた!」
教室の半分が振り向いた。
もう半分は見慣れた顔で、人格タグを確認した。
ヒロトの胸元のタグには、こう表示されていた。
現在の表人格 お調子者人格
代表人格 睡眠中
マユは隣の席で、ペンケースを開けながらため息をついた。
「また代表、寝てるの?」
「寝てない寝てない。心の奥で休暇中!」
「それを寝てるって言うんだよ」
サトルが後ろの席から身を乗り出す。
「一限からそのテンションは強いな」
「サトル、今日は何人格?」
「今はツッコミ人格。あと四十分で笑い人格に変わる予定」
「便利!」
「便利じゃない。授業中に笑い人格が出ると終わる」
教室の壁には、人格交代時計がかかっていた。
普通の時計の下に、小さな円があり、一時間ごとの交代目安が色ではなく記号で表示されている。
この学校では、大半の生徒が一時間に一度、自然に人格が交代する。
一時間目は勉強人格。
二時間目は眠気人格。
昼前は空腹人格。
放課後は遊び人格。
もちろん、予定通りにいかない日もある。
でも、それも普通だった。
ヒロトだけは、朝から少し違った。
本来、登校担当は代表人格。
けれど今日の代表人格は、奥で完全に寝ている。
お調子者人格は席に着くなり、ノートを開いた。
一ページ目に大きく書く。
今日の目標
代表が起きるまで楽しくやる
マユがそれを見た。
「やめて。不安しかない」
「大丈夫。俺に任せろ」
「任せたくないから言ってるの」
担任教師が入ってきた。
灰色のジャケットを着て、出席簿を持っている。
胸元の教師用タグには、授業人格と表示されていた。
「おはよう。現在の表人格で返事をすること」
出席が始まる。
「サトル」
「はい。ツッコミ人格です」
「マユ」
「はい。代表人格です」
「ヒロト」
ヒロトは立ち上がった。
「はい!お調子者人格です!代表は夢の国に出張中です!」
教室に笑いが広がる。
担任教師は出席簿に指を置いたまま、少しだけ目を細めた。
「代表人格に伝えておけ。遅刻ではないが、精神的には遅刻だ」
「名言いただきました!」
「板書するな」
ヒロトはすでにノートに書いていた。
精神的には遅刻
マユが小さく吹き出した。
一時間目は現代文だった。
担任教師の授業人格は、いつも通りまじめに教科書を開く。
「では、この文章の主人公の気持ちを考えよう」
数人の生徒が手を挙げる。
勉強人格。
分析人格。
まじめ人格。
それぞれが順番を待つ。
その中で、ヒロトの手だけが真っ先に上がった。
「はい、ヒロト」
「主人公は、朝ごはんを食べそびれてイライラしています!」
「本文に朝ごはんの記述はない」
「ないからこそ、読者に想像させているんです!」
「強引だな」
「文学はお腹から始まります!」
サトルのツッコミ人格が机を叩いた。
「始まらない!」
教室がまた笑う。
担任教師はチョークを置いた。
「では、他の人格の意見も聞こう」
前の席の女子が立つ。
「分析人格です。主人公は言葉にできない不安を抱えています」
「いいですね」
後ろの男子が立つ。
「眠気人格です。主人公もたぶん眠いです」
「それは君の話だ」
ヒロトがすかさず手を挙げる。
「仲間だ!」
「授業中に仲間を増やすな」
時計の針が進む。
一時間目の終わりまで、あと十五分。
教室のあちこちで、人格タグが小さく震え始めた。
一時間交代の前触れだった。
サトルのタグが切り替わる。
現在の表人格 笑い人格
サトルは、自分の消しゴムを見ただけで笑い出した。
「やばい、角が丸い」
マユが静かに言う。
「そこ笑うところじゃないよ」
サトルは机に突っ伏す。
「わかってるのに笑える」
担任教師も、授業人格から雑談人格に切り替わりかけていた。
板書の文字が急にゆるくなる。
「そういえば先生も昔、代表人格が寝坊して、給食人格で登校したことがある」
クラスがざわつく。
ヒロトが身を乗り出す。
「先生にもそんな時代が!」
「その日は一日中、献立の話しかできなかった」
「最高じゃないですか!」
「職員室では大変だった」
授業は少し脱線した。
でも誰も困らない。
この学校では、脱線も一時間ごとの風向きみたいなものだった。
チャイムが鳴る。
一時間目が終わる。
ヒロトは椅子の背にもたれた。
「いやあ、今日の俺、冴えてるな」
マユの観察人格が表に出た。
彼女はヒロトのタグをじっと見る。
「代表、まだ起きてないね」
「大丈夫。二時間目には起きるでしょ」
サトルの笑い人格が言う。
「起きた瞬間、自分のノート見て倒れるんじゃない?」
ヒロトはノートを見る。
精神的には遅刻
文学はお腹から始まる
主人公は朝ごはんを食べていない説
先生、給食人格で登校事件
「完璧な記録だ」
マユが首を振る。
「代表がかわいそう」
二時間目。
数学。
担当教師は、別の先生だった。
深緑のシャツに、きっちりしたズボン。
胸元のタグには、計算人格。
「今日は方程式を解きます」
教室の空気が少し引き締まる。
ヒロトはペンを構えた。
「ヒロト、この問題を」
「任せてください!」
お調子者人格は勢いよく前へ出た。
板書された式を見る。
数字が並んでいる。
静か。
とても静か。
笑うところがない。
「えーっと」
教室が見守る。
「これは……」
マユが小声で言う。
「代表を起こした方がいいんじゃない?」
「まだいける」
「ほんとに?」
「気合いで解く」
サトルの笑い人格が口を押さえる。
「数学を気合いで」
ヒロトはチョークを持った。
そして、式の横に大きく書いた。
答えは友情
数学教師の計算人格は、三秒黙った。
「違います」
「友情では解けませんか」
「解けません」
「世知辛い」
「消しなさい」
教室が笑う。
ヒロトは消した。
ただ、完全には消えず、うっすら残った。
答えは友情
そこへ、ヒロトの胸元のタグが震えた。
小さく。
けれど、はっきり。
代表人格 起床中
マユが気づいた。
「あ」
サトルも気づいた。
「来るぞ」
ヒロトのお調子者人格が、急に慌てる。
「え、もう?まだ二時間目の途中だよ?」
内側で、寝起きの声がした。
……今、何してる?
ヒロトの目つきが変わった。
肩の力が抜ける。
口元の笑みが消える。
代表人格が、ようやく表に出た。
目の前には数学の板書。
手にはチョーク。
横にはうっすら残る文字。
答えは友情
教室中が、期待に満ちた目でヒロトを見ていた。
代表人格のヒロトは、ゆっくり自分のノートを見た。
精神的には遅刻。
文学はお腹から始まる。
先生、給食人格で登校事件。
そして数学の板書。
顔から血の気が引いた。
次の瞬間、耳まで熱くなる。
「……俺、何した?」
マユがやさしく言った。
「授業を明るくした」
サトルが笑いながら言った。
「歴史を作った」
数学教師が淡々と言った。
「問題は解けていません」
ヒロトはチョークを置いた。
「すみませんでした……」
教室がまた笑った。
誰も責めてはいない。
先生も怒ってはいない。
ただ、代表人格のヒロトだけが、机の下に沈みたい顔をしていた。
二時間目が終わる頃。
ヒロトはノートの端に小さく書いた。
朝は必ず代表で起きる
その下に、お調子者人格の字が勝手に浮かんだ。
無理な日もある!
ヒロトはペンを握りしめた。
「出てくるな」
内側で、お調子者人格が笑っている気がした。
昼休み。
教室では、みんなの人格がまた切り替わっていた。
食事人格。
雑談人格。
眠気人格。
恋愛相談人格。
一時間ごとの交代は、学校全体に小さな波を起こす。
ヒロトは弁当を開けながら、まだ少し落ち込んでいた。
マユが隣でパンを食べる。
今は代表人格に戻っている。
「そこまで気にしなくていいよ」
「気にするよ。数学で答えは友情って書いたんだぞ」
「ちょっとよかったけど」
「よくない」
サトルが前の席から振り向く。
「俺は好き」
「慰めになってない」
「じゃあ、次は答えは努力で」
「やめろ」
胸元のタグがまた震えた。
お調子者人格 反省文作成希望
ヒロトは目を細めた。
「反省文?」
内側から、元気な気配。
タイトルだけ考えた。
代表へ
朝の学校は任せろ
ヒロトは弁当箱を閉じかけた。
「任せない」
マユが笑った。
「仲よさそう」
「どこが」
「ケンカできる相手が中にいるって、けっこういいことだよ」
ヒロトは黙った。
教室のあちこちで、同じようなやり取りが起きていた。
宿題を忘れた人格を叱る代表。
昼食を勝手に増やした食いしんぼ人格。
友達に余計なメッセージを送った恋愛人格。
一時間ごとに変わる誰かと、みんな折り合いをつけている。
ヒロトだけが特別に変なのではない。
ただ、今日の朝は少し目立っただけ。
放課後。
ヒロトは昇降口で靴を履き替えた。
マユとサトルが横にいる。
「明日は代表で来る?」
マユが聞いた。
「来る」
サトルが笑う。
「お調子者人格でもいいけど」
「よくない」
「朝から元気で助かる」
「俺の心は助からない」
校門を出る時、胸元のタグがまた震えた。
お調子者人格 表出希望
ヒロトは少しだけ迷った。
そして、小さくため息をついた。
「一言だけな」
目つきが変わる。
口元が上がる。
お調子者人格が顔を出した。
「明日の目標!代表を起こす!無理なら俺ががんばる!」
すぐに代表人格が戻る。
「勝手に宣言するな」
マユが笑う。
サトルも笑う。
夕方の道を、三人で歩く。
一時間ごとに人格が変わる世界で、今日も誰かが寝坊し、誰かが前に出て、誰かがあとから赤面する。
ヒロトはまだ恥ずかしかった。
でも、朝より少しだけ軽かった。
明日は代表で起きる。
たぶん。
できれば。
なるべく。
内側で、お調子者人格が小さく言った。
寝坊したら呼んで。
ヒロトは前を向いたまま、ぼそっと返した。
「呼ばない」
それでも少しだけ、口元がゆるんだ。
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