第96話 通ってしまったモノ
発端は、噂だった。
三大区ハ区の裏通り。
夜遅くまで灯りが消えない雑居ビルで、
「気分が上がるものが出回っているらしい」
そんな言い方で、話は広がっていった。
絶賛外物。
外物薬。
正式名称を口にする者はいない。
ただ、使った人の様子だけが伝わる。
声が大きくなる。
歩幅が広がる。
自分は大丈夫だと言い切る。
翌朝、翡翠核は数値の異常を検出した。
ハ区の一帯で、
体温のばらつきが増え、
心理反応の同期率が乱れていた。
事件として扱われる前に、
「安心更新対象区域」に指定される。
昼過ぎ。
街守隊ではなく、
サムライ第四隊が静かに入る。
装備は最小限。
制服は淡緑を基調とした作業仕様。
武器は見えない位置に収められている。
封鎖はしない。
警告もしない。
ただ、巡回が始まる。
コンビニ前。
階段下。
路地の奥。
売っていた男は、
自分が売っているという自覚すら薄かった。
「危ない物じゃない」
「みんな使ってる」
「安心内と似てる」
言葉は記録されるが、否定されない。
その場で拘束はされない。
サムライが行うのは、
排除ではなく、分離。
男は「任意案内」という形で、
安心センターへ移動する。
手首を掴まれることもない。
声を荒げられることもない。
ただ、進行方向が決まる。
使用していた市民も同じだ。
誰も叱られない。
誰も責められない。
端末には、こう表示される。
安心再調整のご案内
一時的な生活導線変更があります
夕方。
ニュースは流れない。
代わりに、
地域向けの安心補助映像が増える。
落ち着いた音。
ゆっくりした映像。
「今日はよく眠れます」という字幕。
外物薬についての説明は、ない。
なぜなら、
説明が必要になる時点で、
それはもう安心を阻害しているから。
夜。
売買が行われていた部屋は、
「一時静止空間」に指定される。
中にあった物は、
危険物としてではなく、
未分類物として回収される。
記録上は、
「循環処理済み」。
使った人たちは、
翌日から少しだけ生活が変わる。
配信の内容。
食事の内容。
移動の範囲。
誰も「罰を受けた」とは感じない。
ただ、
あの高揚感が、再現できない。
それだけ。
数日後。
ハ区の体温グラフは安定する。
心理同期率も元に戻る。
事件は、
「起きた」とは記録されない。
あったのは、
一時的な安心の乱れ。
それを、
サムライが静かに整えただけ。
誰も捕まらず、
誰も裁かれず、
誰も語らない。
だから、また街は普通になる。
大和国では、
危ない物が問題なのではない。
管理できない状態が、
問題になるだけだ。







