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空乃 美晴
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雨晒しの原稿用紙
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終業後、エマヌエラに呼ばれた先は、研修室だった。
昼のざわめきが嘘のように静かな部屋で、ホワイトボードにはまだ新人向けの文字が残っている。報連相、整理整頓、言葉は相手に届く形で。
「座って」
エマヌエラは椅子を引いた。
クリストルンが腰を下ろすと、彼女は自分の机の引き出しから古いファイルを持ってくる。端が少し擦れている、何度も開かれた紙の束だった。
「昔ね、あなたみたいな子がいた」
クリストルンは顔を上げる。
「発想が速くて、走るのも速くて、泣くのも怒るのも隠せない。でも、子どもの顔を見るのが上手だった」
「その人は、今どこに」
「別の会社」
エマヌエラは笑わなかった。
「ここで夢を奪われたから」
その言い方に、研修室の空気が一段冷える。
「私は、止めきれなかった。若かったし、立場も弱かった。だからずっと後悔してる」
「……」
「同じ顔を、二度見たくない」
エマヌエラはファイルを開く。
そこには、会議メモ、試作品の写真、やり取りの記録、朱書きの修正案が丁寧に綴じてあった。
「泣いただけでは、何も残らない」
彼女は一枚を抜き出して机に置いた。
「書き残す。見せる。証人を作る。言葉を“あったこと”にする。これが働く人の戦い方」
クリストルンは紙を見つめた。
文字の隅に、小さなコーヒーの染みがある。誰かが眠れない夜にまとめた跡のように見えた。
「正しい人が勝つとは限らない」
エマヌエラは続ける。
「でも、記録のある人は、簡単には消されない」
クリストルンはノートを開く。
「私、まだ下手です」
「最初から上手な人はいない」
「怒ると、頭が真っ白になります」
「なら、真っ白になったことまで書くの」
思わず、笑ってしまった。
エマヌエラの口元も少しだけ緩む。
「あなたは感情がある。それは悪くない。ただ、そのまま投げると武器じゃなくて火事になる」
「……火事」
「そう。燃やす場所を選びなさい」
クリストルンは深く息を吸った。
今日のことを書き留める。昨日の会議も、今日の社内速報も、ペトロニオの手帳のことも。
研修室を出る前、エマヌエラが背中越しに言った。
「あなたが取り戻したいのは、企画の名前だけじゃないでしょう」
クリストルンは立ち止まる。
「はい」
「なら、途中で自分を安く売らないこと」
その言葉は叱責ではなく、背中をまっすぐ支える手のようだった。
廊下へ出ると、窓の外はもう暗い。
けれど、足元の迷いは、昨日より少しだけ減っていた。